August 29, 2015

八月二十九日

 女に振られて生きるのが嫌になった、もう誰も信頼できない、死ぬ(大意)、とのツイートを最後にMくんが消息を絶ち、暦の上では今日で一年。死んだという決定的な証拠は未だなく、今もどこかで平穏な生活を送っている可能性もないとは言えず、今後のカムバックの希望も絶無というわけではない。ただ、そう楽観できる根拠もまたなく、丸一年の沈黙からしてやはり死んだものと判断するのが妥当だろう。
 何件かの未遂という前例もある。自殺したといっても意外性がないばかりか当然の帰結のように思える。悲しいかというと別にそんなこともなく、どんな顔をすればいいかわからないの……くらいが実際のところ。自分には本当に感情がないのではないかと心配になってくる。
 本人の言葉を信じるならば、「失恋を苦にしての自殺」。あまりにアホ臭く、その上安っぽすぎるきらいはあるものの、動機はいかにも明快。もっともらしい理由ではある。日頃の言動からすると、Mくんと付き合うのは面倒臭そうだなあ(そりゃ振られるわ)、という感想しか湧かず、同情の余地もあまりない。ただまあ、彼のようにクヨクヨ考えるたちの人間にとっては、このくらいわかりやすい理屈があった方が死ぬには都合がよかったりするのだろう。
 僕とMくんの付き合いはわりと長かったので、自分も信頼できない人間に含まれていたのかと考えると少し気落ちするが、彼が死んだのにはやはり当日の僕の対応がまずかったせいもあるに違いなく、じゃあまあきっとそういうことなんだろう。やりとりを読み返すと僕の発言は本当に最悪そのもので、精神状態の不安定な人に対して言ってはいけないことばかり言っている。連絡が取れなくなった直後、逮捕されるのは嫌だなあとぼんやり思ったことを記憶している。起訴されたら確実に負ける。
 死にたいやつは死ね。僕はずっとそう考えてきたし、いろんなところでそう言明してもきた。生きるのが苦痛でしかないなら、死は合理的かつ現実的な選択肢であり得る。結局死を決断するのは本人の意志なのであり、他人の苦痛を味わうことは誰にもできない。自殺の原因を外部に求めようとするのは自殺した人間に対する侮辱にほかならず、僕が自分を責めるのは傲慢である。人には死ぬ自由がある。友人がいなくなるというのは確かに寂しいものであるけれど、Mくんがこれ以上苦しみを嘗めずに済むというのならば、それはむしろ喜ばしい話だと言わなくてはならない。整合性は失われていない。責任逃れといえばそうかも知れない。死後の世界を信じない僕は冥福を祈らない。