February 19, 2017

『ダンガンロンパ十神』は〈鏡家サーガ〉

 いきなり『ダンガンロンパ十神』は〈鏡家サーガ〉だったんだよ! なんて言っても頭がおかしいと思われるのが関の山だし、順を追って話しましょうね。
 まず第一に、〈鏡家〉っぽいキャラが出てくる。
 第二に、〈鏡家〉っぽいテーマが扱われている。
 第三に、ここがもっとも重要なのだが、著者がユヤタンである。
 まあ〈鏡家サーガ〉そのものとは言えないまでも、その変奏として読んでも間違いではないだろうし、バチも当たらないだろうなといった感じ。

 もちろん〈鏡家〉のキャラクターが登場したから〈鏡家サーガ〉ということにはならないし、そもそもそんなキャラクターは最初から存在していなかった(ということになっている)。仮に、作中で〈鏡家〉関連の名詞が一切使われなかったとしても、『十神』という作品自体の構造はまったく影響を受けないだろう。わざわざ昔懐かしい名前を登場させたのは、単に佐藤先生のサービス精神ゆえであり、空気の読めなさゆえである。
 とはいえ〈鏡家〉と『十神』の間にいくらかの相似を発見するのはそう難しいことではない。たとえば十神忍というキャラクターは、様々な属性が付加されているけれども、基本的には公彦くんである。稜子姉さんから腐川的メンタリティを除外すれば十神白夜的なものを取り出すことができるだろう。鏡家総出演の中で二人が登場しないのも、そうした事情が絡んでいそうだ。しかもどちらも血の繋がらない姉弟なのだ! 確かに二人の関係はそれぞれ逆転してはいるけれど、細かいことを気にしていては話が進まないし、薬を盛られて悩んだり叫んだり乱れたり壊れたりする稜子姉さんというキュートな愛されキャラも悪くない趣向に思える。

 テーマというのが適切かどうかは知らないが、『水没ピアノ』までの〈鏡家〉では、記憶に纏わるエトセトラがモチーフとして繰り返されてきた。アイデンティティは記憶によって保持される。人に歴史ありってことだ。少なくとも初期三部作に共通する要素として考えられるのは、記憶とアイデンティティの関係くらいしか見当たらないように思われる(新本格ミステリってなんですか?)。
 砂絵ちゃんは、取り込んだ他者の記憶に押し潰されて自己を崩壊させる。コウちゃんは記憶を弄られることで自己認識が大幅に変容した。公彦くんの叙述トリックも、記憶の抑圧によって歪んだ世界認識を表現したものと言えなくもないような気がするぜ。
 どちらかと言うと『十神』は『飛ぶ教室』や『青酸クリームソーダ』に近く、そのまま発展させたものとも見える。たとえ記憶がすべて偽物だったとしても、今の自分が何を信じ、何を選択するかが重要なのだ! みたいな。要するに、「実存は本質に先行する」(面倒臭いことに『十神』では「実存」が「本質」の意味で使われている)。陳腐であるにしても立派な処世訓ではある。まあ星海社だしそのくらいが適当なのかも。

 処世訓といえば、「物語と人生は別物。小説にかまけてないで現実に帰れ」という主張が主人公の口から発せられる。過去の佐藤作品と対立するように感じられる意見だが(ついでに言っておくとめっちゃ笑える)、これは作者自身の思想とその変節を表しているというよりも、そのときどきのムードに従って衣裳を取り替えているものと考えた方が理解しやすい。どこまでが本音で、どこまでが建前か、一読者が区別することは難しいだろう。作者自身だって区別できてるかどうか怪しいもんだとも思う。また変なこと言いだしたなあ、くらいが適当な対応だろう。オッサンの説教風も似たようなもので、何れにせよ本気に受け取る必要はなさそうだ。

 キャラクターやテーマを抜きにしても、『十神』が〈鏡家サーガ〉の延長線上にあることは間違いない。たとえば巻末の『参考文献』。ここに名前を並べたいがために引用したのではないかと邪推を働かせたくなる部分がいくつか見受けられる(ブルーハーブとか)。切り貼りのための切り貼りや元ネタの開示を成熟と見るか退行と呼ぶかは後世の判断に委ねたいが、とにかく、表層を一枚剥がせば、そこにあるのは三島賞作家佐藤友哉による至高のノベライズなどではなく、相変わらず空気が読めず、空回りしがちな、俺たちのユヤタンだということだ。ここに『十神』という小説の価値を見出すとなれば、〈鏡家サーガ〉と呼ぶことにも一面の正当性はあるだろう。

 当面佐藤友哉フィーバーは続くようであるし、今はユヤタンの帰還を祝しピルスナー・ウルケルで乾杯するのも悪くはない。俺たちは大人になった。