May 13, 2013

子供SF

小学校に上がったころ、同じ団地に住む兄ちゃんちから本を段ボール何箱分かもらった。学研の図鑑や子供向けのSF小説なんかが入っていて、僕のサイエンティックな精神は大いに啓発されたものだった。
大半の内容もその題名すらも今では忘れてしまったけれど、この頃ではインターネットという大変便利なものが普及している。これを利用し、曖昧で断片的な記憶を手がかりにして、読んだ小説を探してみることにした。
結果、判明したのは以下の二冊のみだったが、何も見付からないまま終わったわけではないというだけでも上首尾と言える。


『夕ばえ作戦』光瀬龍 
「古道具屋で手に入れたタイムマシンで江戸時代にタイムスリップした主人公が、野球の要領で手裏剣を打ち返したりして忍者と戦う話。みんなで多摩川を渡ったりする」

作者はなんでも有名な作家らしく、ウィキペディアにも記事はある。本作も何度か復刊されていて、数年前には押井守監修によって漫画化もされているそうだ。アマゾンにもしっかりあらすじが載っている。
大岡山の中学生・砂塚茂が古道具屋で手に入れた奇妙な機械はなんとタイム・マシンだった! 機械をいじっているうちに 突如、江戸時代の大岡山に降り立っていた茂が見たものは、村を襲う風魔忍者たちの姿だった。人々を救うべく茂は立ち上がるのだったが…。過去と現在を縦横 無尽にかけめぐる奇想に満ちた戦いを描く。
四、五十年前に書かれた話だそうだけど、舞台はほとんど江戸時代なのであまり気にならない。大岡山だの太子堂だのといった地名が頻出し、当時はそんな別世界のような固有名詞はあらかた無視していたわけだが、今となっては大体把握することができる。昭和生まれなので田園都市線や目蒲線と聞いて困ることもない。
繰り広げられる数々の忍術、特攻野郎Aチームなど、子供心を刺戟する細かい描写は今でも充分魅力的だ。子供ながらにふざけるなと思いながら読んでいた戦闘シーンは、今読んでもふざけるなと言いたいことに変わりはない。まあこのふざけたシーンも、今読めばなげやりというか適当すぎて、その奔放さが笑えてくるわけで、これが大人の余裕というものに違いない。
記憶違いとしては、時をかける女忍者なんてものが登場し、おまけにロマンスにまで発展していたということ、主人公の茂少年がとんでもない不良だったことなどがある。


『ボクに会ったぼく』野火晃
「主人公が、転校生=唐木田ミキについて「ミキ=未来」、「唐木田未来」→「未来・唐木田」、つまり「未来から来た」!ピコーン! などというわけのわからぬ 連想によって、彼女が未来人なのだと確信する話。同じ主人公が今度は自分自身が過去へタイムスリップし、幼い自分を大怪我から救う。テレビ電話ほかすごい 機能満載の腕時計が出てきて、現代に戻ると身体に残っていたはずの傷跡が消えていたりする」

作者は特に有名な作家でもないらしく、ウィキペディアにも記事はない。本作も、凡百の児童文学に埋もれ忘れ去られたものの一つなようで、アマゾンには書影も取り扱いも、もちろんあらすじもない。仕方ないから自分で書いた。
ごく普通の小学六年生三枝和久は、ふしぎな転校生の正体を探るうちにあることに気づくのだが……。転校生・唐喜田ミキの秘密をめぐって巻き起こる 騒動を描いた『なぞの転校生』の他、ふとしたきっかけで過去へとタイムスリップし幼い頃のクラスメイトや自分自身と出会う表題作『ボクに会ったぼく』の短編二作を収録。
話が短すぎて、あらすじを書くにも張り合いがなさすぎて困る。二作で一冊なのだが、あとがきを入れても一二〇ページしかなく、ということはどういうことかというと、どちらの話も五十ページちょっとだということであり、しかもその中には挿し絵も含まれ、 子供向けなので当然字もでかいし漢字も少ない。最後まで一気に読みきってしまいました! これである。
「サブ・リミナル・プロジェクショ ン」、「毎秒二万サイクル以上の音波」など、子供心を刺戟する科学っぽい言葉は、大人となっても盛り上がる。若干ほのぼのとしてしまうけれども、それはそれ。子供ながらにふざけるなと思いながら読んでいた謎解きシーンは、今読んでもふざけるなと言いたいことに変わりはない。まあこのふざけた推理がなければ、この作品が僕の記憶に深く刻みつけられることもなかったわけで、世の中何がきっかけでどうなるかわかったもんじゃない。
記憶違いとしては、「唐木田」ではなく「唐喜田」だったということ。タイムスリップが夢オチだったということ。以上二点である。


理解できず読み飛ばしていた箇所の意味が明瞭になった今では、改めて読み返してみると発見が多い。同時に、当時つまらなく感じた部分は今読んでも相変わらずつまらないもので、子供の感想もなかなか馬鹿にしたもんじゃないとも思う。
意外だったのは、二十何年ぶりに読んだというのに懐しさがまったく感じられなかったことで、これには色々と原因が考えられるが、たぶん僕がそれほど熱心な読者ではなかったか、記憶が大方失われているせいだろう。