February 16, 2015

永遠を目掛けるポスト心中主義としてのセカイ系

 大人に囲われた少女と無力な少年の恋物語として、セカイ系は明らかに近松以来の心中ものの系譜に属する。少年が子供であるがために彼女とともに戦うことを禁じられているということが何を意味しているかについて、ことさら説明する必要もないと思う。

 心中ものにおいて恋人たちに死を決意させるのは、現世への絶望と同程度以上に来世への希望である。永遠の愛を実現する手段として心中は人気を集め、実際昭和あたりまでは機能している。三原山とか。しかし、近代化が進むに従い心中はおとぎ話へと追いやられ、80年代にはほぼ廃れた。近代主義的死生観から刹那的享楽という一つの方向が台頭し、永遠の愛といった主題はいったん閑却される。この刹那主義はやがて退潮するものの、心中が再びその地位を回復することはなかった。その後、再び永遠の愛が主題化され始めるようになった際に、心中ものの様式を継承しつつ心中の不可能性という地点に立脚して永遠の愛を目指そうと誕生したのがセカイ系である。

 セカイ系では、少女が世界(と少年)を守るため自ら命を投げ出し、少年は彼女の思い出を抱えながら生き続ける。残された者が亡き恋人の思い出を支えに生きるという構図はセカチューや恋空などの病死ものにも見られる。病死ものでは死は不運な事故に過ぎないが、セカイ系では、その死は主体的に選び取られたものである。
 少女は、少年とともに世界が滅び去るのを見届けることを拒否する。なぜなら、それは消極的な心中に過ぎないからであり、永遠を手に入れるためには心中はすでに無効となっている方法であるためだ。ここに選択がある。少女の守ろうとする世界は、たとえそれが失敗に終わったとしても、彼女の愛の刻み込まれたものとなる。少年は残りの人生をこの世界の中で生き続けることになるが、彼の死後においても二人の愛の記念碑として文明や人類を超え世界は存続するだろう。ゆえに少女は戦いを引き受ける。世界とともに戦い続けることを決意する。彼女にとってこの世界こそすなわち愛だからだ。永遠を目掛けるポスト心中主義としてのセカイ系である。