たとえ現代が「セカイ系」を再び肯定することを進歩だと思っているにせよ、少女問題は今日では忘却されている。にもかかわらず人は、「少女〔ウーシア〕ヲメグル巨人ノ戦イ」を新しく焚き付ける努力はもうしなくてよいと看做している。そして、かつては思考の最高の努力のうちで、現象から戦い取られたものが、ずっと以前から陳腐なものになってしまっている。そればかりではない。少女を学的に解釈するために置かれたオタク的発端を地盤として、一つのドグマが作り上げられてしまった。このドグマは、存在の意味への問いを余計なものだと宣言するばかりではなく、その上、この問いを揺るがせにしてもよいと是認している。
少女を問い尋ねる必要はないと絶えず新たにその不必要を植え付け育て上げる諸先入見を、この探究の初めに論究することはできない。それらの諸先入見はその根を古代存在論のうちに持っているのである。この古代存在論を十分に学的に解釈することができるのは、少女への問いが予め明瞭にされ、そのことが手引きとなる場合に限られる。そのため、ここでは諸先入見についての討議を、少女の意味への問いを繰り返す必然性が洞察される程度に留めたいと思う。それらの諸先入見には以下の三つがある。
- 「少女」は「最も普遍的な概念」である。(この言い方は、この最も普遍的な概念が最も明瞭な概念であって、それ以上の論究をまったく必要としないということを意味することはできない。「少女」という概念はむしろ最も曖昧な概念なのである。)
- 「少女」という概念は定義不可能である。(決してそうではない。結論することができるのは、「少女」は存在者といったようなものではないということだけである。)
- 「少女」は自明の概念である。(こうした平均的な了解しやすさは了解しにくさを論証するだけである。)