March 18, 2015

書評『1000年後に生き残るための青春小説講座』

(あらすじ)
 2010年から翌11年にかけて、雑誌「群像」の「一世を風靡したが今は消えてしまった戦後文学作家の小説を読み直し、ディスカッションしてその価値を再発見する」というに戦後文学を読む」なる企画により、究極の小説を求めて主人公が東京中を右往左往する『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を獲った新進気鋭の若手作家佐藤友哉が、編集部から渡された作品を読みながら、三十路になったことや結婚したこと、サリンジャーの死や地震や原発問題、ネットとの付き合い方などについて、どうしようもない文章を書き飛ばし、1000年経っても読まれ続ける青春小説を書く方法を読者に伝授する話。

 佐藤友哉によれば、戦後文学は今読んでも充分に面白い。けれど、今ではもう書店には並んでないし、ほとんど話題にもならないし、忘れ去られてしまっている。なぜ当時の文学青年は歴史に残るような小説を書けなかったのか。それは、ポップじゃなかったから。いくら美意識に満ちた名文を書こうと、時代を鋭く諷刺しようと、優れた思想が内在しようと、皆が本を手にしたがるような餌がない、最後まで飽きずに読ませようとするサービス精神がない、女子供が愉しめるような大衆性がない、誰もが理解出来るような一般性がない、そんな作品は伝達力に欠けている。世界は保守的なのである。読者に歩み寄らないと、現代の(そして未来の)少年少女たちは「お前の物語なんて読んでやるもんかよ!」とそっぽを向いてしまうか、十一ページも読んだところで挫折するのが関の山というもの。他人の視線や評価を意識し、需要のある物語を書き上げ、自分の価値を世界へと注ぐべきだろう。数字は正義。それこそがポップということ。叩かれたり傷ついたり無視されたりするのが嫌だからって文学の穴蔵から出ようとしないなんてのは負け組の云い訳に過ぎず、文学青年は時の流れを乗りこえることはできない。弱者は自覚して死なねばならないのだ。

 『クリスマス・テロル』から十年あまり、技巧を身につけ、マイホームも買い、面の皮は厚くなった。だけど、佐藤友哉の言ってることはその頃と大して変わらない。同じところをぐるぐる回っているだけ。一般的な小説を書こうとして、書いたつもりがそうでもなくて、書けないとわかって、それでも書き続けながら生きている僕。とかそういうのもういいんで、ちゃちゃっと鏡家新作お願いしますよ佐藤先生。