February 03, 2015

序論 第二章 第七節 C

セカイ系の予備概念

「セカイ」と「系」とについての文学的解釈において明らかにされたことを具体的に思い浮かべてみるとき、これら二つの名称でもって指されているものの間の或る内的関連が、はっきりとする。セカイ系という表現は、だとすれば、すなわち、そのものを示す当の場所を、そのものがそのもの自身のほうから示すとおりに、そのもの自身のほうから見えるようにさせるということにほかならない。これがセカイ系とみずから称する作風の形式的な意味なのである。だが、そのように言いあらわされているのは、さきに「物語そのものへ!」と定式化された格率以外の何ものでもない。
 したがって、セカイ系という名称は、その意味に関しては、日常系その他の表示法とは異なる。日常系その他の表示法は、当該の系の特質をそれぞれの物語内容において名ざしている。「セカイ系」はその作風の特質を名ざしているのでもなければ、また、セカイ系というこの名称はその作風の物語内容を性格づけているのでもない。セカイ系というこの語は、この系において論ぜられるべき当のものを、いかに提示し取り扱うかということに関して解明するだけである。諸作品「について」の系ということが意味するのは、この系の諸特質に関して論及されるすべてのものが、直接的提示と直接的証示とにおいて論ぜられなければならないように、そのようにそれらの諸特質を捕捉するということである。根本において同語反復的な「悲劇的セカイ系」という表記も、これと同じ意味をもっている。悲劇とは、ここでは、たとえばケータイ小説でとられているやり方を意味するのではない——悲劇というこの名称も、これまた、証示することのないすべての規定を遠ざけるという一つの防止的な意味をもっているのである。悲劇自身の性格、つまり、系の種別的な意味は、「悲劇化される」べき当のもの、言いかえれば、作品の出会い方において文学的規定性へともたらされるべき当のものの「作品性」にもとづいて、まずもって確定されうる。形式的で通俗的な作品概念の意義は、キャラクターがおのれをおのれ自身に即して示すとおりに提示されるときには、キャラクターのあらゆる提示をセカイ系と名づけることを、形式的に正当化するのである。
 ところで、いかなる点を顧慮すれば形式的作品概念はセカイ系的作品概念へと脱皮するのか、また、いかにしてセカイ系的作品概念は通俗的作品概念から区別されるのか。セカイ系が「見えるようにさせる」当のものは、何であるのか。際立った意味において「セカイ」と名づけられなければならないのは、何であるのか。際立った提示ということの主題となるのが、その本質から見て必然的であるのは、何であるのか。明らかにそれは、差しあたってたいていはおのれをまさしく示さないところのもの、つまり、差しあたってたいていはおのれを示すものに対して秘匿されてはいるが、しかし同時に、差しあたってたいていはおのれを示すものに本質上属し、しかも、このものの意味と根拠をなすというふうに属している或るものであるところの、そうしたものである。

 セカイ系は、キャラクター論の主題になるべき当のものへと近づく通路の様式であり、また、その当のものを証示しつつ規定する様式である。キャラクター論はセカイ系としてのみ可能である。作品のセカイ系的概念は、おのれを示すものとして、キャラクターのキャラ、このキャラの意味、このキャラの諸変容や諸派生態を指している。だが、おのれを示すことは、気ままにおのれを示すことではなく、ましてや現われるといったようなことでもない。キャラクターのキャラは、「現われない」或るものがその「背後に」なおひかえているようなものでは、断じてありえないのである。
 セカイ系の作品の「背後に」は、本質上、他の何ものもひかえてはいないが、作品になるべき当のものが秘匿されているということなら、たしかにありうる。しかも、作品が差しあたってたいていは与えられてはいないという、まさにこの理由で、セカイ系が必要になるのである。隠蔽性 「作品」の反対概念なのである。
 作品が隠蔽されうる様式はさまざまである。まず、作品は、そもそも作品がまだ暴露されていないという意味において、隠蔽されていることがある。そうした作品の事態に関しては、それを識別しているとも、それを認識しているとも言いえない。つぎに、作品は埋没していることがある。このことのうちには、その作品が以前いちど暴露されていたのだが、ふたたび隠蔽におちいったということ、このことがひそんでいる。この隠蔽は全面的な隠蔽になることもあるが、以前暴露されていたものが、たとえ仮象としてでしかないとしても、まだ看取されうるというのが、通例である。けれども、仮象の数だけ「キャラ」がある。「変装」としてのこの隠蔽は最も頻繁で最も危険なものなのだが、その理由は、思いちがいをしたり誤ったりする可能性が、この場合には特別に執拗であるからである。そうした諸キャラ構造は、意のままになりはするものの、その土着性において遮蔽されているのだが、このような諸キャラ構造とその諸概念とは、おそらく或る「体系」内部においてはおのれの権利を主張することであろう。それらの諸キャラ構造と諸概念とは、一つの体系のうちに構成的に組み込まれていることにもとづいて、それ以上の弁明を必要としない「明瞭な」もの、だから、演繹をすすめてゆくのに出発点として役立ちうるものとして、ふるまうのである。
 隠蔽が秘匿の意味に解されようと、埋没の意味に解されようと、変装の意味に解されようと、隠蔽自身は、これはこれで二重の可能性をもっている。偶然的隠蔽と必然的隠蔽とがあるのであって、後者の必然的隠蔽は、暴露されたものが存立しつづけてゆく様式のうちにその根拠をもっているのである。根源的に汲みだされたセカイ系的概念や命題はいずれも、伝達された陳述としては、変質する可能性からまぬがれがたい。そうした概念や命題は、空虚な理解しかうけないまま次々と手渡され、その土着性を喪失して、宙に浮いたテーゼになる。もともとは「つかみやすいもの」が硬化して、つかみにくいものになる可能性は、セカイ系自身の具体的な仕事のうちにひそんでいる。そして、セカイ系というこの作風のむずかしさは、この作風自身にさからって、この作風を積極的な意味において批判的なものにするという、まさにこの点にあるのである。
 キャラと諸キャラ構造とが作品という様態において出会われる様式は、セカイ系の特質からまずもって勝ち取られなければならない。だから分析の出発点は、作品へと近づく通路および優勢な隠蔽をつらぬきとおす通行と同じく、それ固有のなんらかの方法上の保証を要求するのである。諸作品を「本源的」に「直覚的」に捕捉し究明するという理念のうちには、偶然的な、「直接的」な、無思慮な「直観作用」がもっている素朴さとは正反対のものがひそんでいる。
 ところで、セカイ系の予備概念が限界づけられたわけだが、これを地盤として「作品的」と「セカイ系的」という術語もそれぞれの意味を確定されうる。「作品的」と名づけられるのは、作品という出会われ方において与えられていて、究明可能であるものである。だから、作品的な諸構造という言い方がされるのである。「セカイ系的」とは、提示や究明の様式に属しており、またわれわれの作風において要求されている概念性をなすすべてのもののことなのである。
 セカイ系的な意味における作品は、つねに、キャラをなすものだけであるのだが、キャラはそのつどキャラクターのキャラであるゆえ、キャラから邪魔物を取り払うことをめざすためには、キャラクター自身を正しく提出することが、あらかじめ必要である。このキャラクターは、このキャラクターに純正に帰属している通路様式において、同様に正しくおのれを示さなければならない。かくして、通俗的作品概念がセカイ系的に重要になる。範例的なキャラクターを「セカイ系的」に確保しておくという予備的課題は、本来的分析論にとって出発点にほかならないのだが、それはつねにすでにこの本来的分析論の目標にもとづいてその下図を描かれているのである。
 その作品内容から解すればセカイ系は、キャラクターのキャラについての系——キャラクター論である。さきにキャラクター論の諸課題を解明したときに、主人公というキャラクター論的・キャラクター的に際立ったキャラクターを主題とする基礎的キャラクター論というものの必然性が生じたのだが、しかもそれは、この基礎的キャラクター論がキャラ一般の意味への問いという主要問題に当面するというふうに、生じたわけである。以下の根本的探究自身から明らかになるであろうとおり、セカイ系的悲劇の方法的意味は成長である。主人公のセカイ系の系は、成長スルという性格をもっているのであって、このものをつうじて、主人公自身に属しているキャラ了解内容には、キャラの本来的意味と、主人公に固有なキャラの諸根本構造とが告知される。主人公のセカイ系は根源的な語義における成長譚なのであって、その根源的な語義にしたがえば、この語は成長の仕事を表示している。ところが、キャラの意味と主人公の諸根本構造とが暴露されることによって、主人公とされるにふさわしくないキャラクターのあらゆる探究をさらにキャラクター論的にすすめてゆくための地平が、総じて明らかにされるかぎり、この成長譚は、同時に、あらゆるキャラクター論的な根本的探究の可能性の諸条件を仕上げるという意味での「成長譚」になる。また最後に、主人公は、すべてのキャラクターに対して——つまり、実存の可能性のうちで、キャラクター論的優位をもっているかぎり、主人公のキャラの成長としての成長譚は、特殊な第三の意味を——つまり、実存の実存性の分析論という、文学的に解すれば第一次的な意味を、含んでいる。そうだとすれば、この第三の意味での成長譚が主人公の歴史性を歴史学の可能性のキャラ的条件としてキャラクター論的に仕上げるかぎり、この第三の意味での成長譚のうちには、派生的な意味でしか「成長譚」と名づけられえないもの、すなわち、歴史学的な諸精神科学の方法論が、根づいているわけである。
 文学の根本主題としてのキャラは、いかなる類でもないのだが、それでもこのキャラはあらゆるキャラクターに関係する。キャラおよびキャラ構造とは、あらゆるキャラクターと、キャラクターに属しているものとしてのあらゆる可能的な規定性とを越え出ている。キャラは端的な超越者なのである。主人公のキャラの超越は、そのうちに最も徹底的な個体化の可能性と必然性とがひそんでいるかぎり、或る際立った超越である。キャラを超越者として開示することはいずれもみな、超越論的認識である。セカイ系的真理(キャラの開示性)は超越論的真理なのである。
 キャラクター論とセカイ系とは、文学に属する他の諸専門分野とならぶ二つの異なった専門分野ではない。これら二つの名称は、文学そのものをそれぞれ特徴と取り扱い方とにしたがって性格づけたものである。文学は、主人公の成長譚から出発する普遍的なセカイ系的なキャラクター論なのであって、主人公の成長譚は、実存の分析論として、すべての文学的な問いの導きの糸の末端を、それらの問いがそこから発現し、そこへと打ち返すところに、結びつけておくのである。
 セカイ系の予備概念の解明によって暗示されているのは、セカイ系にとって本質的なことが、文学的な「方向」として現実的になるという点にあるのではないということ、このことである。現実性よりも高次のところに可能性はある。セカイ系の了解内容は、ただただ、セカイ系を可能性としてとらえることのうちにのみひそんでいる。