March 20, 2015

幸村と信繁

 トレードマークでもあるボーダーのカットソーに身を包んだ吉野さんは、乾杯を済ませてからというもの、幹事でもないのにテーブルの間をせわしなく立ち回り、空いた皿やグラスに視線を巡らせてはテキパキと注文をこなしている。その様子は普段の仕事中とまるで変わらず、苦労して隣の席を確保したというのに、これでは話しかけるどころではない。
 一段落ついた吉野さんが戻ってきたので、僕はさり気なく顔を背けた。じっと見つめていたことを悟られないためだ。椅子に座りこんだ吉野さんは、さすがに疲れが溜まっているようだ。どことなく気の抜けた表情を浮かべている。僕がグラスにビールを注ぐと、吉野さんはそっけなく「ありがと」と言った。
 僕は吉野さんと仕事以外ではほとんど会話をしたことがない。吉野さんには人を寄せ付けないところがあるというか、同じことだけれど、取っ付きにくいところがある。仕事ができて、気も利くし、人望だってあるのだが、どことなくよそよそしさを感じさせるのだ。吉野さんについて知っていることはあまりない。出身も、生い立ちも、住んでいる町も、好きな食べ物も、嫌いな芸能人も僕は知らなかった。ただ、一つだけ、吉野さんが歴史……特に戦国時代を趣味にしているというのだけは僕も耳にしていた。というのも、そのことが部内では有名な噂だったからだ。休みごとに全国を飛び回り史跡を訪れているだとか、大名と国の名前をすべて暗記しているだとか、自宅は関連グッズで足の踏み場もないだとか、エトセトラエトセトラ。だから今日の僕は話題に迷うということはほとんどなかった。
「吉野さんって、歴史好きってほんとですか?」
「うん……なんで?」
 とはいえ、いささか唐突だったかもしれない。いきなりこんな話を切り出されては、怪訝な顔をするのも当然といえば当然。会話ではホップとステップが大切だ。でも、このくらいなら予想もしていたし、口に出してしまった以上、今さら引き返せもしない。
「実は僕も武将とか好きで」
「え、誰?」
 手にしていたグラスをテーブルに置き、吉野さんは僕の方に身を乗り出すように向き直った。警戒心はあっという間に解けたらしい。僕はほっとする。
「真田幸村とか」
 真田幸村。猿飛佐助を始めとする真田十勇士を従え、奇抜な戦法を駆使して徳川方を翻弄、苦戦させながら、大坂夏の陣で壮絶な戦死を遂げた名将である。織田信長や徳川家康ほど有名ではないが、マニアしか知らないというほど無名ではない。話の導入には最適な選択だと、僕はそう考えていた。
「ノブシゲねえ……」
 吉野さんはそう言ってせせら笑い、一人ふんふんと頷いた。 僕には意味がわからない。
「の、のぶしげ?」
 それが武将の名前だろうというくらいの見当はつくが、真田幸村の話をしようとしているところに、どうしてそんな名前が出てくるのか。何か間違ったことを言ってしまったのだろうか。 「真田幸村の……」と言いかけたところで吉野さんは箸を取り上げ、「まだまだだねえ」と独りごちる。関心はすでに料理の方へと移ってしまったようだ。  何が起きたのかさっぱり理解できなかったが、思惑が外れてしまったということだけは確かだった。
「あ、今度、本貸してあげる」
 付け焼き刃は見透かされているのかもしれない。下心もバレているのだろう。なんだか機嫌がよさそうなのは、きっと酔っているからに違いない。
「ほんとですか?」
 でも僕はその申し出に即座に飛びついてしまう。満面の笑顔を浮かべた吉野さんが直視できず、僕は思わず目を逸らす。会話が途切れ、間抜けな返事しかできない自分が厭になる。
 明日になっても、僕と吉野さんの関係は、これまで通り何一つ変わることなく続いていくのだろう。ただの職場の先輩と後輩だ。この会話だって、たまたま席が隣り合ったから生まれたってだけで、本は借りても読まないまま返すに違いない。戦国武将なんてどうでもいいのだ。
 だけど、僕はせっかくの機会を棒に振りたくなかった。吉野さんに近づきたかった。踏み込みたかった。何かを言わなければいけない気がしたが、何を言うべきかはわからなかった。とにかくそんな気になっていた。気ばかりが焦っていたのだ。落ち着かない。目が泳ぐ。考えがまとまらないうちに口だけが勝手に動いた。
「歴史が好きな人、美人が多いってほんとですね」
 言い終えた瞬間、周囲の喧騒が浮き上がる。僕ははやくも後悔した。吉野さんが今どんな顔をしているか確かめるには、僕には少し勇気が足りない。
「ちょっとやだ、やめてよー」
 僕の内面を知ってか知らずか、吉野さんは急に笑いだした。それは、僕の言葉をすべてなかったことにするという宣告だった。
「わたし、でもあれだよ……中学時代とか、さ、西郷隆盛? 西郷隆盛に似てるって言われちゃっててさ……ていうか眉毛とかなんかドーンってしてるし、ていうか男じゃん?」
 それは完全に僕への拒絶の意思を示していた。吉野さんはひたすら早口でまくし立てるばかりで、もう目を合わせようともしてくれない。ただ隣に座っているだけの僕は、彼女の繰り出す自嘲めいた言葉を、黙って聞き続けることしかできない。
(了)