March 22, 2015

佐藤友哉『ドグマ34』

 佐藤友哉作品に親しんでいる読者にとって、神戸児童連続殺傷事件は馴染み深いものだろう。酒鬼薔薇聖斗こと少年A逮捕のニュースを知ったミナミ君はショックで自殺しちゃうし、土江田さんは本人からして元少年A。一般的にも、あの頃物心のついていた人間なら誰しも印象深く記憶しているはずだ。学校の校門に子供の生首を置くというのは当時としては斬新奇抜なアイデアだったし、その声明文はある意味衝撃的なものだった。この事件を引き起こした犯人が十四才の少年だったと報道されたときには、世間の騒然ぶりときたらそれは大変なものじゃった……(以下回想が続く)。
 とはいえ、客観的に見れば実際に少年Aのやったことはしょうもなかった。英語駄目駄目だったし。それでも彼は自分の主張を社会に叩きつけ、何も考えずに生きている肉のカタマリみたいな人間たちを震撼させることには成功したわけで、まあ、人を刺したり猫を殺したのはマズかったが、そういう現実的な話ではなく、あくまでスタンスというか精神性的な面からのみ捉えるならば、あれはあれで立派な業績を上げたと言えなくもない。
 事件から十七年が過ぎ、少年Aも今では元少年Aどころか立派なアラサーだ。ユヤタン(笑)自身もとうに三十四才となり、マイホームでお父さんマシーンに従事するなど社会に順応しきっているらしい。作者と同い年であり、脂肪としがらみと面の皮を身に付けたこの作品の語り手も、現実を飼い馴らしながら日々を過ごしている。とは言っても、理解の及ばぬ事柄を既知の物語に押し込めわかったような口を利く大人たちの不誠実さに嫌悪を感じるくらいにはまだまだ青いままで、だから事件の舞台を訪れ少年Aの足どりを辿るツアーに参加するという行為は、僕らが嘲笑っていた醜い大人に自分自身がなったことで過去の自分から逆襲を受けるというのに等しい。さらに皮肉なことに、それについて恥じ入ることすらできないというのだ。だって大人だから。それはもう爆笑するしかない。大人になりきれないまま大人の役目を果たし続ける自分自身への違和感や困惑などというものを「大人らしさ」とは呼びにくいものではあるが、現実とはそういうものなのかも知れない、と大人の僕は考えたりもする。
 一方、途中から太田さんっぽい人と入れ替わって登場した謎の美少女は、当時の少年Aと同じく十四才。彼女にとって少年Aというのは等身大のキャラクターというやつで、自己の鏡像であると同時に一個のロールモデルでもある。軽薄で窮屈で偽善的な社会に敵意を向けるのは、今も昔も少年少女の仕事だ。僕にとっては遠く過ぎ去った季節であり、世界との戦いに子持ちのおっさんの出る幕はない。少女の憤懣に理解を示し、同情も共感もなく受け流すことだってできてしまうし、少年Aの行動の中に不器用さや鈍臭さを見て取り、笑い声を上げたり呆れ顔を浮かべたりもできる。まさしく大人の余裕ってやつだ。
 少女と別れ、ツアーを終えた家庭持ちの僕は、吐瀉物を撒き散らすという臆病なテロルで世界への敵意にかたを付け、殴りも殺しもすることなく嫁さんとチビちゃんの待つ家へと帰っていく。大人には世界と戦う前にしなければいけないことがたくさんある。老いてしまった僕にはそれを悲しんでいる暇もなければ必然もない。他に考えることは山ほどあるし、世界と戦う仕事は今この時にもどこかで誰かに引き継がれているはずだからだ。戦う少年少女がどこにいるのか、本当に存在しているのかは知らないが、少なくとも、地下鉄の中でナイフを手にして座る少女の姿を空想するくらいの自由は許されるだろう。世界は常に危機と隣り合わせだ。夜空を見るたびに思い出すがいい。