December 11, 2015

伊藤計劃インスパイア系として読む『ダンガンロンパ十神』

佐藤友哉『ダンガンロンパ十神』
  本テキストを書くにあたり、次の筆記システムを使用した。
  k2k-system ver2.3
 混物。偽物。紛物。写本の写本がはびこる世界で、よく耐えていると思う。システムの堅牢さと生真面目さには舌を巻くしかない。
 そんなわけなので、僕の仕事といえば、ちょっとした添削くらいだ。身のほどはわきまえている。古英語詩を台無しにした筆者僧どもの仲間入りをする気はない。
 はじまり(オリジン)の魂に幸あれ。
 あるとすればの話だが。


伊藤計劃『From the Nothing, With Love』
 例えるなら私は書物だ。いまこうして生起しつつあるテクストだ。(略)だから、これから書かれる文章がいささか皮肉めいていて、あるいは感傷的に見えたとしても、そこにはいかなる内面もない。そう解釈できる、純粋な出力があるだけだ。
 そのうえでこう言わせて欲しい。
 私の魂に安らぎあれ、と。


 『ダンガンロンパ十神』での「人類史上最大最悪の絶望的事件」は『ハーモニー』、『虐殺器官』における〈大災禍(ザ・メイルストロム)〉と重ね合わされている。それも恐らく意識的に。「虐殺言語」が「絶望小説」に置き換わっただけで、これもう『虐殺器官』の二次創作でいいんじゃないかってレベル。『ベッドサイド・マーダーケース』の前例もあるし、佐藤友哉自身伊藤計劃への信奉を公言してるし。

 さすがに文中にタグは使われていないが、オン/オフラインの参照情報を提示する「ボルヘス」は、ETMLの dictionary タグと同じ役割を果たしている。名称はもちろん『ハーモニー』の「全書籍図書館(ボルヘス)」から。目を疑ったのはアメリカ開拓時代の奴隷を例にとった「噛み噛み」部分。多少手を加えてはいるものの、そのまま『ハーモニー』の引き写し。いかに切り貼り作家の定評を持つとはいえ少なくともこういう書き方はしないはずだったと思うのだけど。
 繰り返して現れる明らさまな模倣には、そこに何らかの意図が含まれていると考えるべきだろう。したがって『ダンガンロンパ十神』を解読するには伊藤計劃の諸作を前提する必要があるように感じられる。

 執筆に用いられた k2k-system は実在するものではないらしく、どうやら架空のシステムのようだ(ググってみたところ、EメールとFAXをやり取りするサービスやニュートリノが質量を持つことを証明した実験などがヒットした。まあ、そういう方面から深読みを進めるのも面白そうなんだけど、無闇と深読みの泥沼に嵌まるのは現時点では見合わせておきたい)。とりあえず、前書きの「僕」と著者である佐藤友哉は区別されるべきだということは確実。ただそうすると終盤に挿入される「作者の言葉」が宙ぶらりんになってしまうという難点もあるのだが、単にこれを佐藤友哉の悪ふざけにすべてを帰すのはいかがなものか。本を開いたところからフィクションは始まっている。「僕」が佐藤友哉ではなく「僕」であること。「ここではとんでもない詐術が働いている」のだ。
 前書きが校正者に過ぎない「僕」によるものであるということは、『十神』に先行する「原典」の存在が予想される。恐らく「はじまり(オリジン)」という言葉はその原典の「著者」を指すものだろう。これは物語の語り手『青インク』だと考えていいと思う。ていうか他に適当な人物が見当たらない。
 『青インク』=十神忍。十神白夜の所有物であり、その存在理由は十神白夜の伝記の執筆。まさしく原典の著者としてうってつけの人物像。だが『ダンガンロンパ十神』はどう読んでも十神白夜の伝記ではない。しかも『ダンガンロンパ十神』は、一般的な一人称小説のように摩訶不思議な作用で語り手の心理を文章として紙面に定着させたものではなく、一種の写本なのだ。
 じゃあ、はじまりって一体誰なのよ。原典って一体何なのよ。

 伊藤計劃の『ハーモニー』は霧慧トァンの一人称で語られている。しかしこの物語が記述された時代、人類は意識を消失しシステムの中に溶け合っている状態にある。この時点ではトァンという個人はもはや存在しない。つまり、『ハーモニー』はトァン個人の記憶ではなく、社会システムの語るトァン(という個体)の記録となっている。したがって『ハーモニー』は正確にはトァンによって書かれたものではなく、せいぜい「かつて霧慧トァンであった個体」によって書かれたものだとしか言えないのである。
 短編『From the Nothing, With Love』の語り手は、「原典」と呼ばれる人格を脳に上書きされた人間だ。彼は自己を「写本」と規定し、原典の記憶、思考、振る舞いを継続することによってその存在を維持している。ここで「原典」に振られたルビは「オリジナル」。ちなみに彼は女王陛下の所有物であり、「所有物」には「プロパティ」のルビが付く。
 『十神』がその構造を上記二作品に負っているならば、語り手と書き手の同一性を自明視することはできない。『ダンガンロンパ十神』の著者は十神忍(オリジナル)ではなく「十神忍の記憶を引き継いだ何か」ということになるだろう。
 あるとすればだが。

 というわけで、前書きから引き出される疑問は以下のようなものになる。
 『ダンガンロンパ十神』に原典は存在するのか。
 十神忍にオリジナルは存在するのか。
 青インクに魂は存在するのか。
 かつて『エナメル』で「魂なんて存在しないのに」と言い放ったのは鏡稜子、オリジナルかどうかを問われ「どっちでも良いじゃん」と言い切ったのは『フリッカー式』の鏡佐奈である。