December 05, 2015

『ダンガンロンパ十神(上)』のレビュー

 レビューで最も大切なのは「フェアであること」。作品に対してであれ、作者に対してであれ、自分自身に対してであれ。当然ながら人間と云うものは実に様々な価値観でもって物事を判断する。基準点を喪ってしまっている世界において公平に語ると云う事は私的に語る事でもある。いや、佐藤友哉の裏切りなんてものは、そりゃしょっちゅうなんだけど。

 雑なキャラクター、雑なセッティング、雑なプロット、雑なナラティブ(ついでに云っておくと、「ですます調」で語る佐藤友哉が僕はあまり好きではない)。そうした印象は本作を読んでいる間、終始付き纏っていた。弁解のように聞こえるかも知れないが、個性溢れる登場人物達が破茶滅茶な状況の中で大活躍を繰り広げ壮絶な展開と手に汗握るアクションに満ちた冒険譚は、たとえ雑な作りであったとしてもただそれだけで充分に面白い。実際に本作『ダンガンロンパ十神(上)』は面白く読めた。良く出来たエンタメ小説だ。
 だけどね。

「ネタとしては使い古されているけど、それに代わるもんがないから仕方なく使うとして……村上春樹の登場人物風に云うとすれば、やれやれって感じだね。あっ、ジョジョでも可か」
 幾ら禁じ手を平然と踏み破るのがユヤタンクオリティだからと云って、超えてはいけない一線は(曲りなりにせよ)ある。これは『ダンガンロンパ』スピンオフなのであって、云ってみれば他所様の作品。そこはちゃんと区別しとこうよ、同人誌じゃないんだからさ。
「私は『絶望高校級のブラコン』鏡佐奈」
 ……って何だよ。親が聞いたら泣くぞ。
「……私は『絶望高校級の二重人格』鏡那緒美」
 お前まだ中学生だろうが。
 
 もやもやした頭を抱えながら(上巻了)の文字を見て本を閉じる事になる。ところが時間が経つに従い、いやこれは傑作だとしか云えなくなってくるのだ。

 この『ダンガンロンパ十神(上)』は、『ダンガンロンパ』シリーズのスピンオフ作品でありノベライズ。当たり前の事ながら想定される読者には「小説の愛好家」「佐藤友哉の読者」だけではなく「『ダンガンロンパ』のファン」も含まれる。主な読者層はそちらの方なのかも知れないね。
 ゲームをやっていないので確言は出来ないけれど、致命的な破綻も崩壊はなく「ノベライズ」の観点からすれば成功している部類に入るだろう。勿論、一般性にはちょっと程遠い世界ではあるにしても読者を喰いつかせるための餌、サービス精神、大衆性は充分に持ち合わせている。ざっと検索してみたところ「思ってたキャラと違う」とか「文章が稚拙」とか「オリキャラが不快」とか「作者が地の文で愚痴ってる」等々、小説と云う創作ジャンル(しかも二次創作)にあっては不可避な非難(難癖とも云う)以上の否定的意見は見受けられなかった。肝心の十神ファンの反応も概ね好ましいもののように思える。スペックは絶望的に低いが、そんなものに価値を見出すのは依頼された原稿を要求に応じ着実に書き上げるプロの仕事を理解出来ない思い上がった素人だけだ。少なくとも及第点には達していると見て良い。

 ところがこれを佐藤友哉読者の観点から読むとなると、本作はもう本当にやりたい放題やっている様にしか思えない。既存の作品やサブカルチャー(笑)からの借用、流用、転用、引用は、最早佐藤友哉の十八番、御家芸、代名詞。はいはい想定内想定内。メタ発言はオタクとして当然の嗜みだよね。〈鏡家サーガ〉時代からの読者は、懐かしさを感じるか馬鹿にされたと感じるか、或いはその両方を感じて狼狽えるだろう(僕はそうだった)。過去にやったネタの再利用、キャラクターや文章自体の切り貼りは若かりし頃の自分と読者を嗤う恥ずかしい大人に成り下がったオッサン佐藤友哉の姿を予期させ、醜い姿を晒しながら往年のヒット曲を演奏する雑な再結成バンドと同じ嘘臭さを感じさせる(まあ、それはそれで盛り上がるんだけど)。佐藤友哉の性格の悪さを考えると嘘臭さそれ自体が嫌がらせを目的に書かれていると判断せざるを得ないし、こう云うのが好きなんでしょ? とニタニタ笑う顔も透けて見える。「鏡家を、青春の書を汚すな!」と大切にしているものを無造作にポンと出されてセンチメンタルな反応を返すのも当然と云えば当然だ。読者サービスと嫌がらせの一粒で二度美味しい技法である。おまけにユヤタン芸の再演は佐藤友哉(とその元ネタ)を知らない層には寧ろ「ロンパ的」な要素として好意的に受け止められているようで、ゲームの制作者がユヤタン(佐藤友哉)の愛読者を自認している事を考え合わせると佐藤読者としてはこの相互循環作用を俯瞰的に眺める事が出来て大変味わい深いものがある。

 さて、最後まで読み終えてみると、こうした切り貼りが単なるアクセントやネタに留まらず冒頭から提示されていた作品のメタ構造と密接に関わり合っている事に気付く。目的の為には〈鏡家サーガ〉すらも道具として使い捨てる姿勢に古くからの読者としては複雑な思いがするけれど、その分効果的だと云う事は否定出来ない。終盤部分に挿入された『クリスマス・テロル』を再現するかのような作者の独白はネタとして大分寒いが作品に込められた佐藤友哉の本気ってものが窺い知れなくもない。
 作品全体を見渡して得られるメタフィクション的構造は疑い深い読者の見当識を失わせ、目の前に広がる作品世界の位相を錯誤させる。羅列される架空の作家に夢野久作の名が混じり込んでいるのは恐らく意図的なものだろう。自分は『ダンガンロンパ』を読んでいるのか〈鏡家サーガ〉を読んでいるのか、それとも全く別の世界であるのか……。こうした眩惑的な仕掛けが、馬鹿馬鹿しい程に単純で明快な物語と両立しているのだ。凄い! 佐藤先生天才!

 もう一つ。この作品にはキャラクターだけでなく、寧ろそれ以上にこれまで佐藤友哉が小説に書き続けてきたテーマが引き継がれている。暗黒青春小説の系譜に属する事は云うまでもないが、書くという行為への執着、無自覚な悪意、終わりなき青春の終わり、妹、牛、エトセトラエトセトラ。キャリア総決算と云った趣で、さすがに全部乗せって無茶にも程があるだろうと思わずにはいられないのだが不思議とこの割と短めの分量の中に収まっており、そればかりかちゃんと作品として成立している。それも他作品のノベライズでだ。小説家としての力量の為せる業である。凄い! 佐藤先生中堅作家!


 結論。断言してしまうが、『ダンガンロンパ十神(上)』は現時点に於ける佐藤友哉の最高到達点である。「何も考えていないように見せかけておいて実は腹に一物あると勘繰らせるような行動をとりながら、実際はやっぱり何も考えちゃいない」と云う可能性も捨てきれないのだが、そうした場合にもやはり佐藤先生の天才ぶりが証明されるだけの結果となるので特に問題ないと思う。世界との戦いは続く。物語は残る。