March 29, 2015

『クリスマス・テロル』の「テロル」

 2001年、佐藤友哉は『フリッカー式』で第二十一回メフィスト賞を受賞し推理小説作家としてデビューを果たす。翌年までに計三つの長編を発表するものの反響はゼロに等しく、売り上げは惨憺たる有様だった。続く新作を出せる見込みもなく作家として崖っぷちに立たされていた佐藤のもとへ最後のチャンスとして齎されたのが講談社ノベルス20周年記念企画「密室本」ーーいわゆる「密室」をテーマにした推理小説ーーの執筆依頼である。
 それまでの作風のままでは売れないということは佐藤自身も理解していた。かと言って売れ線の推理小説を書くには技術も足りなければアイデアも湧かない。そこで、もう後のない佐藤先生が考え付いたのが「テロル」という手法だった。
 ジャンル小説というものは作者と読者の間に一定の決まり事を要求するものであり、線引きは人それぞれであるにしても最低限のルールは保たれなければならない。当然ながらこの『クリスマス・テロル』という作品も推理小説としてのルールに忠実に則ったものだ。
 絶海の孤島で起こる密室からの消失事件、奇病に侵された少女の謎の死、二つの事件に翻弄されながらも美少女探偵・小林冬子は真相へと辿り着く——まさに推理小説のオーソドックスなパターンを踏襲する、それまでに刊行された三作品に較べれば著しくスペックの低いあらすじと言えよう。設定や展開に多少無理が見られ先行作品から引き写した部分も少なくないにせよ常識的な範囲に収まる普通の推理小説である。目立った点といえば、話の途中で作者が語り手の立場を逸脱して物語とは関係のない話を繰り広げること。それとエピローグに当たる最終章を慣例にない「あとがき」に充てているというところ。あとはなんだろ……あれ、これくらい?
 書き手が顔を覗かせる小説はそう珍しいものではない。古典推理小説でも読者への挑戦状とかやってたりするし(残念ながら未読ではあるが)。作家だって人間なので、あとがきを書きたくなることだってあるだろう。その辺りはあまりルール違反と責め立てるべきではないように思える。
 では『クリスマス・テロル』における「テロル」の核心とも言うべき点はどこにあるかというと、物語の流れを断ち切りエピローグを廃してまで作者・佐藤友哉が語ろうとしたその内容にある。
 簡単に言うと「あまりに自作が売れず作家を続けていられない」という泣き言だ。ただでさえ作者がしゃしゃって来て鬱陶しい小説だおいうのに、普通の推理小説を期待したーー何せ密室をテーマにした新本格推理小説という触れ込みだーー推理小説ファンにとっては興醒めも甚だしい。想像を絶する奇怪な事件、魅力溢れるキャラクター、秀逸なトリックに鮮やかな解決、あと世界観とか? 推理小説ファンが何を求めて誰も知らないような推理小説を読むのかはまあ人それぞれ色々事情があるのだろうが、少なくとも作者の愚痴を聞くためではないはずだ。話の途中で唐突に現れる作者が自分の無能を棚に上げ、小説が売れないのは怠慢な読者のせいだなどと駄々を捏ねるというのは私小説とかそういうのでやるものであって、推理小説とは話が違うのだ。いかに心の広い者といえどもこんなものを機嫌よく読了できるはずはない。実績のある御大ならまだしもひよっこ同然の新人作家に過ぎないのだ。単に下手糞なだけの作品であれば駄作の一言で無視するなり今後に期待するなりしとけば済む話だが、どう見たって推理小説というものを舐めきった態度でしかなく、言ってしまえば冒瀆である。出来不出来を云々する前に出版するレベルに達していない、読む価値はない、編集者は何をやっているのだ、金返せ! などと罵倒の声を上げたくなるのも人情というもので、実際一部で轟々と巻き起こった。
 しかし好評も悪評も評判は評判。それまで黙殺され続けていた作者としては、そうした反応を惹起することこそが目的であった。今で言う炎上マーケティングである。果たして密室本『クリスマス・テロル』は狙い通り話題を集め、(比較的)売れる。佐藤友哉にとっては初の重版出来となり、過去の作品にも再版がかかる。他の出版社からも執筆の依頼が来はじめる。「テロル」によって作家としての延命に成功したわけである。
 つまり、確かに「テロル」は作品のテーマと密接に関わり決して切り離せるものではないが、あくまで読者に手に取ってもらうためのきっかけに過ぎず、作品自体の面白さとはあまり関係がない。テーマというのはまあ書くことの孤独と不安、読む者と読まれる者の関係とかそういう感じだとして、それじゃあ『クリスマス・テロル』の面白さってのは一体何なのか、というのが本題として続くことになるわけなんだけれども長くなりそうだし面倒臭くなってきたから略するね。

March 22, 2015

佐藤友哉『ドグマ34』

 佐藤友哉作品に親しんでいる読者にとって、神戸児童連続殺傷事件は馴染み深いものだろう。酒鬼薔薇聖斗こと少年A逮捕のニュースを知ったミナミ君はショックで自殺しちゃうし、土江田さんは本人からして元少年A。一般的にも、あの頃物心のついていた人間なら誰しも印象深く記憶しているはずだ。学校の校門に子供の生首を置くというのは当時としては斬新奇抜なアイデアだったし、その声明文はある意味衝撃的なものだった。この事件を引き起こした犯人が十四才の少年だったと報道されたときには、世間の騒然ぶりときたらそれは大変なものじゃった……(以下回想が続く)。
 とはいえ、客観的に見れば実際に少年Aのやったことはしょうもなかった。英語駄目駄目だったし。それでも彼は自分の主張を社会に叩きつけ、何も考えずに生きている肉のカタマリみたいな人間たちを震撼させることには成功したわけで、まあ、人を刺したり猫を殺したのはマズかったが、そういう現実的な話ではなく、あくまでスタンスというか精神性的な面からのみ捉えるならば、あれはあれで立派な業績を上げたと言えなくもない。
 事件から十七年が過ぎ、少年Aも今では元少年Aどころか立派なアラサーだ。ユヤタン(笑)自身もとうに三十四才となり、マイホームでお父さんマシーンに従事するなど社会に順応しきっているらしい。作者と同い年であり、脂肪としがらみと面の皮を身に付けたこの作品の語り手も、現実を飼い馴らしながら日々を過ごしている。とは言っても、理解の及ばぬ事柄を既知の物語に押し込めわかったような口を利く大人たちの不誠実さに嫌悪を感じるくらいにはまだまだ青いままで、だから事件の舞台を訪れ少年Aの足どりを辿るツアーに参加するという行為は、僕らが嘲笑っていた醜い大人に自分自身がなったことで過去の自分から逆襲を受けるというのに等しい。さらに皮肉なことに、それについて恥じ入ることすらできないというのだ。だって大人だから。それはもう爆笑するしかない。大人になりきれないまま大人の役目を果たし続ける自分自身への違和感や困惑などというものを「大人らしさ」とは呼びにくいものではあるが、現実とはそういうものなのかも知れない、と大人の僕は考えたりもする。
 一方、途中から太田さんっぽい人と入れ替わって登場した謎の美少女は、当時の少年Aと同じく十四才。彼女にとって少年Aというのは等身大のキャラクターというやつで、自己の鏡像であると同時に一個のロールモデルでもある。軽薄で窮屈で偽善的な社会に敵意を向けるのは、今も昔も少年少女の仕事だ。僕にとっては遠く過ぎ去った季節であり、世界との戦いに子持ちのおっさんの出る幕はない。少女の憤懣に理解を示し、同情も共感もなく受け流すことだってできてしまうし、少年Aの行動の中に不器用さや鈍臭さを見て取り、笑い声を上げたり呆れ顔を浮かべたりもできる。まさしく大人の余裕ってやつだ。
 少女と別れ、ツアーを終えた家庭持ちの僕は、吐瀉物を撒き散らすという臆病なテロルで世界への敵意にかたを付け、殴りも殺しもすることなく嫁さんとチビちゃんの待つ家へと帰っていく。大人には世界と戦う前にしなければいけないことがたくさんある。老いてしまった僕にはそれを悲しんでいる暇もなければ必然もない。他に考えることは山ほどあるし、世界と戦う仕事は今この時にもどこかで誰かに引き継がれているはずだからだ。戦う少年少女がどこにいるのか、本当に存在しているのかは知らないが、少なくとも、地下鉄の中でナイフを手にして座る少女の姿を空想するくらいの自由は許されるだろう。世界は常に危機と隣り合わせだ。夜空を見るたびに思い出すがいい。

March 20, 2015

幸村と信繁

 トレードマークでもあるボーダーのカットソーに身を包んだ吉野さんは、乾杯を済ませてからというもの、幹事でもないのにテーブルの間をせわしなく立ち回り、空いた皿やグラスに視線を巡らせてはテキパキと注文をこなしている。その様子は普段の仕事中とまるで変わらず、苦労して隣の席を確保したというのに、これでは話しかけるどころではない。
 一段落ついた吉野さんが戻ってきたので、僕はさり気なく顔を背けた。じっと見つめていたことを悟られないためだ。椅子に座りこんだ吉野さんは、さすがに疲れが溜まっているようだ。どことなく気の抜けた表情を浮かべている。僕がグラスにビールを注ぐと、吉野さんはそっけなく「ありがと」と言った。
 僕は吉野さんと仕事以外ではほとんど会話をしたことがない。吉野さんには人を寄せ付けないところがあるというか、同じことだけれど、取っ付きにくいところがある。仕事ができて、気も利くし、人望だってあるのだが、どことなくよそよそしさを感じさせるのだ。吉野さんについて知っていることはあまりない。出身も、生い立ちも、住んでいる町も、好きな食べ物も、嫌いな芸能人も僕は知らなかった。ただ、一つだけ、吉野さんが歴史……特に戦国時代を趣味にしているというのだけは僕も耳にしていた。というのも、そのことが部内では有名な噂だったからだ。休みごとに全国を飛び回り史跡を訪れているだとか、大名と国の名前をすべて暗記しているだとか、自宅は関連グッズで足の踏み場もないだとか、エトセトラエトセトラ。だから今日の僕は話題に迷うということはほとんどなかった。
「吉野さんって、歴史好きってほんとですか?」
「うん……なんで?」
 とはいえ、いささか唐突だったかもしれない。いきなりこんな話を切り出されては、怪訝な顔をするのも当然といえば当然。会話ではホップとステップが大切だ。でも、このくらいなら予想もしていたし、口に出してしまった以上、今さら引き返せもしない。
「実は僕も武将とか好きで」
「え、誰?」
 手にしていたグラスをテーブルに置き、吉野さんは僕の方に身を乗り出すように向き直った。警戒心はあっという間に解けたらしい。僕はほっとする。
「真田幸村とか」
 真田幸村。猿飛佐助を始めとする真田十勇士を従え、奇抜な戦法を駆使して徳川方を翻弄、苦戦させながら、大坂夏の陣で壮絶な戦死を遂げた名将である。織田信長や徳川家康ほど有名ではないが、マニアしか知らないというほど無名ではない。話の導入には最適な選択だと、僕はそう考えていた。
「ノブシゲねえ……」
 吉野さんはそう言ってせせら笑い、一人ふんふんと頷いた。 僕には意味がわからない。
「の、のぶしげ?」
 それが武将の名前だろうというくらいの見当はつくが、真田幸村の話をしようとしているところに、どうしてそんな名前が出てくるのか。何か間違ったことを言ってしまったのだろうか。 「真田幸村の……」と言いかけたところで吉野さんは箸を取り上げ、「まだまだだねえ」と独りごちる。関心はすでに料理の方へと移ってしまったようだ。  何が起きたのかさっぱり理解できなかったが、思惑が外れてしまったということだけは確かだった。
「あ、今度、本貸してあげる」
 付け焼き刃は見透かされているのかもしれない。下心もバレているのだろう。なんだか機嫌がよさそうなのは、きっと酔っているからに違いない。
「ほんとですか?」
 でも僕はその申し出に即座に飛びついてしまう。満面の笑顔を浮かべた吉野さんが直視できず、僕は思わず目を逸らす。会話が途切れ、間抜けな返事しかできない自分が厭になる。
 明日になっても、僕と吉野さんの関係は、これまで通り何一つ変わることなく続いていくのだろう。ただの職場の先輩と後輩だ。この会話だって、たまたま席が隣り合ったから生まれたってだけで、本は借りても読まないまま返すに違いない。戦国武将なんてどうでもいいのだ。
 だけど、僕はせっかくの機会を棒に振りたくなかった。吉野さんに近づきたかった。踏み込みたかった。何かを言わなければいけない気がしたが、何を言うべきかはわからなかった。とにかくそんな気になっていた。気ばかりが焦っていたのだ。落ち着かない。目が泳ぐ。考えがまとまらないうちに口だけが勝手に動いた。
「歴史が好きな人、美人が多いってほんとですね」
 言い終えた瞬間、周囲の喧騒が浮き上がる。僕ははやくも後悔した。吉野さんが今どんな顔をしているか確かめるには、僕には少し勇気が足りない。
「ちょっとやだ、やめてよー」
 僕の内面を知ってか知らずか、吉野さんは急に笑いだした。それは、僕の言葉をすべてなかったことにするという宣告だった。
「わたし、でもあれだよ……中学時代とか、さ、西郷隆盛? 西郷隆盛に似てるって言われちゃっててさ……ていうか眉毛とかなんかドーンってしてるし、ていうか男じゃん?」
 それは完全に僕への拒絶の意思を示していた。吉野さんはひたすら早口でまくし立てるばかりで、もう目を合わせようともしてくれない。ただ隣に座っているだけの僕は、彼女の繰り出す自嘲めいた言葉を、黙って聞き続けることしかできない。
(了)

March 18, 2015

書評『1000年後に生き残るための青春小説講座』

(あらすじ)
 2010年から翌11年にかけて、雑誌「群像」の「一世を風靡したが今は消えてしまった戦後文学作家の小説を読み直し、ディスカッションしてその価値を再発見する」というに戦後文学を読む」なる企画により、究極の小説を求めて主人公が東京中を右往左往する『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を獲った新進気鋭の若手作家佐藤友哉が、編集部から渡された作品を読みながら、三十路になったことや結婚したこと、サリンジャーの死や地震や原発問題、ネットとの付き合い方などについて、どうしようもない文章を書き飛ばし、1000年経っても読まれ続ける青春小説を書く方法を読者に伝授する話。

 佐藤友哉によれば、戦後文学は今読んでも充分に面白い。けれど、今ではもう書店には並んでないし、ほとんど話題にもならないし、忘れ去られてしまっている。なぜ当時の文学青年は歴史に残るような小説を書けなかったのか。それは、ポップじゃなかったから。いくら美意識に満ちた名文を書こうと、時代を鋭く諷刺しようと、優れた思想が内在しようと、皆が本を手にしたがるような餌がない、最後まで飽きずに読ませようとするサービス精神がない、女子供が愉しめるような大衆性がない、誰もが理解出来るような一般性がない、そんな作品は伝達力に欠けている。世界は保守的なのである。読者に歩み寄らないと、現代の(そして未来の)少年少女たちは「お前の物語なんて読んでやるもんかよ!」とそっぽを向いてしまうか、十一ページも読んだところで挫折するのが関の山というもの。他人の視線や評価を意識し、需要のある物語を書き上げ、自分の価値を世界へと注ぐべきだろう。数字は正義。それこそがポップということ。叩かれたり傷ついたり無視されたりするのが嫌だからって文学の穴蔵から出ようとしないなんてのは負け組の云い訳に過ぎず、文学青年は時の流れを乗りこえることはできない。弱者は自覚して死なねばならないのだ。

 『クリスマス・テロル』から十年あまり、技巧を身につけ、マイホームも買い、面の皮は厚くなった。だけど、佐藤友哉の言ってることはその頃と大して変わらない。同じところをぐるぐる回っているだけ。一般的な小説を書こうとして、書いたつもりがそうでもなくて、書けないとわかって、それでも書き続けながら生きている僕。とかそういうのもういいんで、ちゃちゃっと鏡家新作お願いしますよ佐藤先生。