December 22, 2015

『クリスマス・テロル』の文体論

 重要なのはスピードだ。BPMやMPHなどといった明確かつ客観的な単位は存在しないにしても、速度の概念は文章にも通用する。
 改行ばかりで読み終えるまでに掛かる時間が短いとか、改行がほとんどなかったり漢字が多いせいで見た感じ密度が高いとかそういった物理的な意味合いは含まない。また、ただ話の展開が速いというだけのことであれば、それは単調さと直結し、単調さとはすなわち停滞の徴候だ。文章の速さとは文体の速さである。
 説明を省き、描写を間引き、プロットを切り詰め、テクストを圧縮し、読者に対し不親切なことは認めざるを得ないにしても、『クリスマス・テロル』は限界まで飛ばす。速度を上げた結果理解できるのは書いた本人だけ、なんてことになれば読めたものではないし、粗筋をなぞるだけの無味乾燥な文章の羅列ともなれば目も当てられないが、そこは匙加減。独り善がりや脱線と思える部分もままあるとして、それでも作者は手綱を失ってはいない。地の文全体に撒き散らされる口語表現、比喩の用をなしていない比喩、微妙に意味のずれた語句、不自然に介入する作者の声。一見余計なように見えるこれらの要素により可読性が若干損なわれてはいるが、要するに優先順位の問題だ。もともと文章の中に異物感を内在させる点こそが佐藤文体の躓きの石であり、同時に武器でもある。その特徴を一つ一つ挙げていけば読者を観察者ないし傍観者の立場へと追いやる欠点でしかないのだが、組み合わさることで奇跡的とも言える効果を挙げている。不可避的に発生する異物感は登場人物への共感、物語への没入を阻害すると同時に生じる抑揚から導き出されるグルーヴィーかつハイテンションなジェットコースターリーディング。
 お世辞にも佐藤友哉を美文家とは呼べないし、呼ぶ必然性もない。どちらかと言えば悪文家の範疇に入るだろう。けれどもこの試論で追求されるのは文章の美しさではないし、ましてや読みやすさや入り込みやすさなどといったものでもない。焦点はその文体に絞られ、また悪文にも文体は存在する。文体自体の持ち得る速さ。その点において一つの限界に最も近づいた小説、それが『クリスマス・テロル』である。

December 11, 2015

伊藤計劃インスパイア系として読む『ダンガンロンパ十神』

佐藤友哉『ダンガンロンパ十神』
  本テキストを書くにあたり、次の筆記システムを使用した。
  k2k-system ver2.3
 混物。偽物。紛物。写本の写本がはびこる世界で、よく耐えていると思う。システムの堅牢さと生真面目さには舌を巻くしかない。
 そんなわけなので、僕の仕事といえば、ちょっとした添削くらいだ。身のほどはわきまえている。古英語詩を台無しにした筆者僧どもの仲間入りをする気はない。
 はじまり(オリジン)の魂に幸あれ。
 あるとすればの話だが。


伊藤計劃『From the Nothing, With Love』
 例えるなら私は書物だ。いまこうして生起しつつあるテクストだ。(略)だから、これから書かれる文章がいささか皮肉めいていて、あるいは感傷的に見えたとしても、そこにはいかなる内面もない。そう解釈できる、純粋な出力があるだけだ。
 そのうえでこう言わせて欲しい。
 私の魂に安らぎあれ、と。


 『ダンガンロンパ十神』での「人類史上最大最悪の絶望的事件」は『ハーモニー』、『虐殺器官』における〈大災禍(ザ・メイルストロム)〉と重ね合わされている。それも恐らく意識的に。「虐殺言語」が「絶望小説」に置き換わっただけで、これもう『虐殺器官』の二次創作でいいんじゃないかってレベル。『ベッドサイド・マーダーケース』の前例もあるし、佐藤友哉自身伊藤計劃への信奉を公言してるし。

 さすがに文中にタグは使われていないが、オン/オフラインの参照情報を提示する「ボルヘス」は、ETMLの dictionary タグと同じ役割を果たしている。名称はもちろん『ハーモニー』の「全書籍図書館(ボルヘス)」から。目を疑ったのはアメリカ開拓時代の奴隷を例にとった「噛み噛み」部分。多少手を加えてはいるものの、そのまま『ハーモニー』の引き写し。いかに切り貼り作家の定評を持つとはいえ少なくともこういう書き方はしないはずだったと思うのだけど。
 繰り返して現れる明らさまな模倣には、そこに何らかの意図が含まれていると考えるべきだろう。したがって『ダンガンロンパ十神』を解読するには伊藤計劃の諸作を前提する必要があるように感じられる。

 執筆に用いられた k2k-system は実在するものではないらしく、どうやら架空のシステムのようだ(ググってみたところ、EメールとFAXをやり取りするサービスやニュートリノが質量を持つことを証明した実験などがヒットした。まあ、そういう方面から深読みを進めるのも面白そうなんだけど、無闇と深読みの泥沼に嵌まるのは現時点では見合わせておきたい)。とりあえず、前書きの「僕」と著者である佐藤友哉は区別されるべきだということは確実。ただそうすると終盤に挿入される「作者の言葉」が宙ぶらりんになってしまうという難点もあるのだが、単にこれを佐藤友哉の悪ふざけにすべてを帰すのはいかがなものか。本を開いたところからフィクションは始まっている。「僕」が佐藤友哉ではなく「僕」であること。「ここではとんでもない詐術が働いている」のだ。
 前書きが校正者に過ぎない「僕」によるものであるということは、『十神』に先行する「原典」の存在が予想される。恐らく「はじまり(オリジン)」という言葉はその原典の「著者」を指すものだろう。これは物語の語り手『青インク』だと考えていいと思う。ていうか他に適当な人物が見当たらない。
 『青インク』=十神忍。十神白夜の所有物であり、その存在理由は十神白夜の伝記の執筆。まさしく原典の著者としてうってつけの人物像。だが『ダンガンロンパ十神』はどう読んでも十神白夜の伝記ではない。しかも『ダンガンロンパ十神』は、一般的な一人称小説のように摩訶不思議な作用で語り手の心理を文章として紙面に定着させたものではなく、一種の写本なのだ。
 じゃあ、はじまりって一体誰なのよ。原典って一体何なのよ。

 伊藤計劃の『ハーモニー』は霧慧トァンの一人称で語られている。しかしこの物語が記述された時代、人類は意識を消失しシステムの中に溶け合っている状態にある。この時点ではトァンという個人はもはや存在しない。つまり、『ハーモニー』はトァン個人の記憶ではなく、社会システムの語るトァン(という個体)の記録となっている。したがって『ハーモニー』は正確にはトァンによって書かれたものではなく、せいぜい「かつて霧慧トァンであった個体」によって書かれたものだとしか言えないのである。
 短編『From the Nothing, With Love』の語り手は、「原典」と呼ばれる人格を脳に上書きされた人間だ。彼は自己を「写本」と規定し、原典の記憶、思考、振る舞いを継続することによってその存在を維持している。ここで「原典」に振られたルビは「オリジナル」。ちなみに彼は女王陛下の所有物であり、「所有物」には「プロパティ」のルビが付く。
 『十神』がその構造を上記二作品に負っているならば、語り手と書き手の同一性を自明視することはできない。『ダンガンロンパ十神』の著者は十神忍(オリジナル)ではなく「十神忍の記憶を引き継いだ何か」ということになるだろう。
 あるとすればだが。

 というわけで、前書きから引き出される疑問は以下のようなものになる。
 『ダンガンロンパ十神』に原典は存在するのか。
 十神忍にオリジナルは存在するのか。
 青インクに魂は存在するのか。
 かつて『エナメル』で「魂なんて存在しないのに」と言い放ったのは鏡稜子、オリジナルかどうかを問われ「どっちでも良いじゃん」と言い切ったのは『フリッカー式』の鏡佐奈である。

December 05, 2015

『ダンガンロンパ十神(上)』のレビュー

 レビューで最も大切なのは「フェアであること」。作品に対してであれ、作者に対してであれ、自分自身に対してであれ。当然ながら人間と云うものは実に様々な価値観でもって物事を判断する。基準点を喪ってしまっている世界において公平に語ると云う事は私的に語る事でもある。いや、佐藤友哉の裏切りなんてものは、そりゃしょっちゅうなんだけど。

 雑なキャラクター、雑なセッティング、雑なプロット、雑なナラティブ(ついでに云っておくと、「ですます調」で語る佐藤友哉が僕はあまり好きではない)。そうした印象は本作を読んでいる間、終始付き纏っていた。弁解のように聞こえるかも知れないが、個性溢れる登場人物達が破茶滅茶な状況の中で大活躍を繰り広げ壮絶な展開と手に汗握るアクションに満ちた冒険譚は、たとえ雑な作りであったとしてもただそれだけで充分に面白い。実際に本作『ダンガンロンパ十神(上)』は面白く読めた。良く出来たエンタメ小説だ。
 だけどね。

「ネタとしては使い古されているけど、それに代わるもんがないから仕方なく使うとして……村上春樹の登場人物風に云うとすれば、やれやれって感じだね。あっ、ジョジョでも可か」
 幾ら禁じ手を平然と踏み破るのがユヤタンクオリティだからと云って、超えてはいけない一線は(曲りなりにせよ)ある。これは『ダンガンロンパ』スピンオフなのであって、云ってみれば他所様の作品。そこはちゃんと区別しとこうよ、同人誌じゃないんだからさ。
「私は『絶望高校級のブラコン』鏡佐奈」
 ……って何だよ。親が聞いたら泣くぞ。
「……私は『絶望高校級の二重人格』鏡那緒美」
 お前まだ中学生だろうが。
 
 もやもやした頭を抱えながら(上巻了)の文字を見て本を閉じる事になる。ところが時間が経つに従い、いやこれは傑作だとしか云えなくなってくるのだ。

 この『ダンガンロンパ十神(上)』は、『ダンガンロンパ』シリーズのスピンオフ作品でありノベライズ。当たり前の事ながら想定される読者には「小説の愛好家」「佐藤友哉の読者」だけではなく「『ダンガンロンパ』のファン」も含まれる。主な読者層はそちらの方なのかも知れないね。
 ゲームをやっていないので確言は出来ないけれど、致命的な破綻も崩壊はなく「ノベライズ」の観点からすれば成功している部類に入るだろう。勿論、一般性にはちょっと程遠い世界ではあるにしても読者を喰いつかせるための餌、サービス精神、大衆性は充分に持ち合わせている。ざっと検索してみたところ「思ってたキャラと違う」とか「文章が稚拙」とか「オリキャラが不快」とか「作者が地の文で愚痴ってる」等々、小説と云う創作ジャンル(しかも二次創作)にあっては不可避な非難(難癖とも云う)以上の否定的意見は見受けられなかった。肝心の十神ファンの反応も概ね好ましいもののように思える。スペックは絶望的に低いが、そんなものに価値を見出すのは依頼された原稿を要求に応じ着実に書き上げるプロの仕事を理解出来ない思い上がった素人だけだ。少なくとも及第点には達していると見て良い。

 ところがこれを佐藤友哉読者の観点から読むとなると、本作はもう本当にやりたい放題やっている様にしか思えない。既存の作品やサブカルチャー(笑)からの借用、流用、転用、引用は、最早佐藤友哉の十八番、御家芸、代名詞。はいはい想定内想定内。メタ発言はオタクとして当然の嗜みだよね。〈鏡家サーガ〉時代からの読者は、懐かしさを感じるか馬鹿にされたと感じるか、或いはその両方を感じて狼狽えるだろう(僕はそうだった)。過去にやったネタの再利用、キャラクターや文章自体の切り貼りは若かりし頃の自分と読者を嗤う恥ずかしい大人に成り下がったオッサン佐藤友哉の姿を予期させ、醜い姿を晒しながら往年のヒット曲を演奏する雑な再結成バンドと同じ嘘臭さを感じさせる(まあ、それはそれで盛り上がるんだけど)。佐藤友哉の性格の悪さを考えると嘘臭さそれ自体が嫌がらせを目的に書かれていると判断せざるを得ないし、こう云うのが好きなんでしょ? とニタニタ笑う顔も透けて見える。「鏡家を、青春の書を汚すな!」と大切にしているものを無造作にポンと出されてセンチメンタルな反応を返すのも当然と云えば当然だ。読者サービスと嫌がらせの一粒で二度美味しい技法である。おまけにユヤタン芸の再演は佐藤友哉(とその元ネタ)を知らない層には寧ろ「ロンパ的」な要素として好意的に受け止められているようで、ゲームの制作者がユヤタン(佐藤友哉)の愛読者を自認している事を考え合わせると佐藤読者としてはこの相互循環作用を俯瞰的に眺める事が出来て大変味わい深いものがある。

 さて、最後まで読み終えてみると、こうした切り貼りが単なるアクセントやネタに留まらず冒頭から提示されていた作品のメタ構造と密接に関わり合っている事に気付く。目的の為には〈鏡家サーガ〉すらも道具として使い捨てる姿勢に古くからの読者としては複雑な思いがするけれど、その分効果的だと云う事は否定出来ない。終盤部分に挿入された『クリスマス・テロル』を再現するかのような作者の独白はネタとして大分寒いが作品に込められた佐藤友哉の本気ってものが窺い知れなくもない。
 作品全体を見渡して得られるメタフィクション的構造は疑い深い読者の見当識を失わせ、目の前に広がる作品世界の位相を錯誤させる。羅列される架空の作家に夢野久作の名が混じり込んでいるのは恐らく意図的なものだろう。自分は『ダンガンロンパ』を読んでいるのか〈鏡家サーガ〉を読んでいるのか、それとも全く別の世界であるのか……。こうした眩惑的な仕掛けが、馬鹿馬鹿しい程に単純で明快な物語と両立しているのだ。凄い! 佐藤先生天才!

 もう一つ。この作品にはキャラクターだけでなく、寧ろそれ以上にこれまで佐藤友哉が小説に書き続けてきたテーマが引き継がれている。暗黒青春小説の系譜に属する事は云うまでもないが、書くという行為への執着、無自覚な悪意、終わりなき青春の終わり、妹、牛、エトセトラエトセトラ。キャリア総決算と云った趣で、さすがに全部乗せって無茶にも程があるだろうと思わずにはいられないのだが不思議とこの割と短めの分量の中に収まっており、そればかりかちゃんと作品として成立している。それも他作品のノベライズでだ。小説家としての力量の為せる業である。凄い! 佐藤先生中堅作家!


 結論。断言してしまうが、『ダンガンロンパ十神(上)』は現時点に於ける佐藤友哉の最高到達点である。「何も考えていないように見せかけておいて実は腹に一物あると勘繰らせるような行動をとりながら、実際はやっぱり何も考えちゃいない」と云う可能性も捨てきれないのだが、そうした場合にもやはり佐藤先生の天才ぶりが証明されるだけの結果となるので特に問題ないと思う。世界との戦いは続く。物語は残る。

December 01, 2015

ダンガンロンパ十神(上)がとても笑えるという話

 佐藤友哉作品では、打ちひしがれた野心と挫折した魂の持ち主が主人公兼語り手として据えられる場合が多くあります。読者は、主人公と作者たる佐藤友哉とを半ば同一視し、まあつまり私小説的に読まれる傾向が強いわけなんですが、今回もまたそんな語り手の登場です。

 才能を信じ、才能に憧れながら、才能に恵まれず、そんなこんなで才能コンプレックスに苛まれ、今では田舎でモグラのように引き篭もり、希望から目を背ける生活を送っている「僕」。いつものというかいかにもな「オレたちのユヤタン」って感じがプンプンします。
 例によって謎の美少女との邂逅を経て、不可解な事件に巻き込まれる「僕」……という、お定まりのこの展開ほど白けさせるものはありませんね、誰か改善してくれないと。
 二人の前に立ち塞がり、『世界密室化計画』の名の下に連続殺人鬼や古今のミステリ小説を模倣しながらじゃんじゃん人を殺して回っているのが、希望ヶ峰学園付属中学校ミステリー研究会。そうです、これはダンガンロンパスピンオフだったのです。
 若さゆえの暴走か、密室殺人に悦びを覚える変態どもだけど、「僕」からしてみると、そうしたアピールに余念のないところが才能ゼロ人間の才能ゼロたる所以なのだそうです。人の才能をああだこうだと論評する才能ゼロ人間の彼らは、佐藤友哉自身の読者層に近しいものを感じざるを得ません。だって、作者を悪し様に罵るのが好きですからね、佐藤友哉ファンという人達は。同じく才能ゼロ人間である「僕」は、こうした豚の悪口にひどく敏感なので、当然怒りをぶちまけますが、相手には通じません。ジェネレーションギャップでしょうか。
 それから何やら色々あって、「僕」が己の無力さに茫然としていると、再び現れたミステリー研究会のメンバーが、絶望への招待状を差し出します。お前の絶望が見てみたい! のだそうです。この場合、構造としては「昔のように暗黒青春物語(あるいはその続き)を書いてよユヤタン!」と作者のファンが懇願するのと同値と言えましょう。砕けて言うと「鏡家サーガ書けやゴルァ!」というやつです。しかし、もうすぐ干支も三巡を迎えるいい大人の「僕」は、絶望を拒否することを選び、ベストエンディングを求め奔走します。さすがパパタン、毎日の幼稚園の送り迎えは伊達じゃありません。
 ラストでついに「僕」は自ら封印していた記憶と人格を覚醒させることになるんですが、なんとその正体は、才能の塊であると同時に〈鏡家サーガ〉を引き継いだ存在、その名も元『超高校級の殺し屋』大槻涼彦だったのです! ベストエンディングどこ行った。

「言葉もありませんってか。ケッコーケッコー。あのときのオレ、っていうか『僕』という存在は、ぜんぶ嘘っぱち。もっともらしく聞こえた『僕』の苦悩や鬱屈は、オレが三分くらいで考えたインスタントなものにすぎなかったわけ。『僕』にイラついたやつも、『僕』に同情したやつも、『僕』に注文つけたやつも、ハ〜イご苦労様。お疲れちゃーん。楽しかったぁ? それより自分の人生をがんばれっつ〜の。ドハハハハハハハハハハ!」
 暗黒青春小説〈鏡家サーガ〉の関係者が鮮やかにキメる絶望のちゃぶ台返し。そして「僕」もとい大槻は、ナイフでミス研をぶった斬ります。佐藤先生煽りすぎでしょ。笑うでしょ。