February 17, 2015

 いったい我々は「少女」という言葉で何を意味するつもりなのか、この問いに対して、我々は今日何らかの答えを持っているのであろうか。断じて否。だからこそ、少女への問いを改めて設定することが肝要なのだ。

 たとえ現代が「セカイ系」を再び肯定することを進歩だと思っているにせよ、少女問題は今日では忘却されている。にもかかわらず人は、「少女〔ウーシア〕ヲメグル巨人ノ戦イ」を新しく焚き付ける努力はもうしなくてよいと看做している。そして、かつては思考の最高の努力のうちで、現象から戦い取られたものが、ずっと以前から陳腐なものになってしまっている。そればかりではない。少女を学的に解釈するために置かれたオタク的発端を地盤として、一つのドグマが作り上げられてしまった。このドグマは、存在の意味への問いを余計なものだと宣言するばかりではなく、その上、この問いを揺るがせにしてもよいと是認している。
 少女を問い尋ねる必要はないと絶えず新たにその不必要を植え付け育て上げる諸先入見を、この探究の初めに論究することはできない。それらの諸先入見はその根を古代存在論のうちに持っているのである。この古代存在論を十分に学的に解釈することができるのは、少女への問いが予め明瞭にされ、そのことが手引きとなる場合に限られる。そのため、ここでは諸先入見についての討議を、少女の意味への問いを繰り返す必然性が洞察される程度に留めたいと思う。それらの諸先入見には以下の三つがある。
  1. 「少女」は「最も普遍的な概念」である。(この言い方は、この最も普遍的な概念が最も明瞭な概念であって、それ以上の論究をまったく必要としないということを意味することはできない。「少女」という概念はむしろ最も曖昧な概念なのである。)
  2. 「少女」という概念は定義不可能である。(決してそうではない。結論することができるのは、「少女」は存在者といったようなものではないということだけである。)
  3. 「少女」は自明の概念である。(こうした平均的な了解しやすさは了解しにくさを論証するだけである。)
だが、以上の諸先入見を考量すると同時に判然となったのは、少女を問い尋ねる問いに対して答えが欠けているばかりではなく、それどころかこの問い自身が曖昧で方向を失っているということである。だから、少女問題を繰り返すことは、まず第一にその問題設定を十分に仕上げることに他ならない。

February 16, 2015

永遠を目掛けるポスト心中主義としてのセカイ系

 大人に囲われた少女と無力な少年の恋物語として、セカイ系は明らかに近松以来の心中ものの系譜に属する。少年が子供であるがために彼女とともに戦うことを禁じられているということが何を意味しているかについて、ことさら説明する必要もないと思う。

 心中ものにおいて恋人たちに死を決意させるのは、現世への絶望と同程度以上に来世への希望である。永遠の愛を実現する手段として心中は人気を集め、実際昭和あたりまでは機能している。三原山とか。しかし、近代化が進むに従い心中はおとぎ話へと追いやられ、80年代にはほぼ廃れた。近代主義的死生観から刹那的享楽という一つの方向が台頭し、永遠の愛といった主題はいったん閑却される。この刹那主義はやがて退潮するものの、心中が再びその地位を回復することはなかった。その後、再び永遠の愛が主題化され始めるようになった際に、心中ものの様式を継承しつつ心中の不可能性という地点に立脚して永遠の愛を目指そうと誕生したのがセカイ系である。

 セカイ系では、少女が世界(と少年)を守るため自ら命を投げ出し、少年は彼女の思い出を抱えながら生き続ける。残された者が亡き恋人の思い出を支えに生きるという構図はセカチューや恋空などの病死ものにも見られる。病死ものでは死は不運な事故に過ぎないが、セカイ系では、その死は主体的に選び取られたものである。
 少女は、少年とともに世界が滅び去るのを見届けることを拒否する。なぜなら、それは消極的な心中に過ぎないからであり、永遠を手に入れるためには心中はすでに無効となっている方法であるためだ。ここに選択がある。少女の守ろうとする世界は、たとえそれが失敗に終わったとしても、彼女の愛の刻み込まれたものとなる。少年は残りの人生をこの世界の中で生き続けることになるが、彼の死後においても二人の愛の記念碑として文明や人類を超え世界は存続するだろう。ゆえに少女は戦いを引き受ける。世界とともに戦い続けることを決意する。彼女にとってこの世界こそすなわち愛だからだ。永遠を目掛けるポスト心中主義としてのセカイ系である。

February 07, 2015

セカイ系とは

 1990年代後半から00年代にかけて作られた、オタクに人気の高い学園ラブコメや巨大ロボットSFといったジャンルを混ぜ合わせ、そこへ美少女やロボット、探偵などのオタクに好まれる要素を多く登場させることで、特に世界や社会を具体的に想像できないでいる自意識過剰な若いオタク男性をターゲットに据えた作品群を指す。
 ジャンル自体の虚構性を批評的に描くという自己言及的な構造と、そのゲーム的な方法論が特徴である。

 典型的なセカイ系作品では、強大な力を持ち世界の命運を握る少女と、無力で彼女を見守るだけの少年、という二人の主人公が配置され、この二人を中心とした小さな関係性が、社会的、歴史的な経緯を捨象したまま世界の危機やこの世の終わりに直結するといった構図を持ち、戦闘に参加することのない少年が、戦う宿命を背負った少女から愛され、最終的に少女を失う、という展開となっている。
 主人公らによる一人語りは、権力への意志、成長の拒絶という二つの観念に根ざしており、また、作品内で実社会に関する描写が意図的に省かれることによって、「世界」という言葉で言い表される彼ら自身の世界認識の仕方が示されている。

 セカイ系作品の乱立、公共的社会の描写の不足あるいは欠如への非難や、無条件的な承認に埋没し思考停止に陥った主人公の無責任さと自己中心主義を問題視する意見もあり、ジャンルとしてのセカイ系は2010年代に入る頃にはほぼ廃れたが、とはいえ「自意識と世界の果て」というモチーフは文学の基本テーマの一つであり、その影響は形を変えつつ後続の作品へと受け継げられている。

February 04, 2015

『存在と時間』目次 (抜粋)

序論 存在の意味への問いの開陳


第一章 存在問題の必然性、構造、および優位

第二章 存在問題を仕上げるときの二重の課題 根本的探究の方法とその構図

  • 根本的探究の現象学的方法
A 現象という概念
B ロゴスという概念
C 現象学の予備概念

第一部


第一篇 現存在の予備的な基礎的分析

第一章 現存在の予備的分析の課題と開陳

第二章 現存在の根本機構としての世界内存在一般

第三章 世界の世界性

  • 世界一般の世界性の理念
A 環境世界性と世界性一般との分析
  • 環境世界の内で出会われる存在者の存在
  • 世界内部的存在者に即しておのれを告げるところの、環境世界適合性
  • 指示と記号
  • 適所性と有意義性 世界の世界性
B 世界性の分析をデカルトでみられる世界の学的解釈に対して対照させること
  • 拡ガリノアルモノとしての「世界」の規定
  • 「世界」の存在論的規定の諸基礎
  • 「世界」のデカルト的存在論についての解釈学的討議
C 環境世界の環境性と現存在の空間性
  • 世界内部的な道具的存在者の空間性
  • 世界内存在の空間性
  • 現存在の空間性と空間

第四章 共存在および自己存在としての世界内存在 「世人」

  • 現存在の誰かに対する実存論的な問いのために置かれた発端
  • 他者たちの共現存在と日常的な共存在
  • 日常的な自己存在と世人

第五章 内存在そのもの

A 現の実存論的構成
B 現の日常的存在と現存在の頽落
  • 空談
  • 好奇心
  • 曖昧性
  • 頽落と被投性
  • 現存在の際立った開示性としての不安という根本情状性
  • 気遣いとしての現存在の存在
  • 現存在の前存在論的自己解釈にもとづく、気遣いとしての現存在の実存論的な学的解釈の確証
  • 現存在、世界性、および実在性
a 外的世界」の存在と証明可能性との問題との実在性
b 存在論的問題としての実在性
c 実在性と気遣い
  • 現存在、開示性、真理
a 伝統的真理概念とその存在論的な諸基礎
b 真理の根源的現象と伝統的真理概念の派生性
c 真理の存在様式と真理前提

第二篇 現存在と時間性

  • 現存在の予備的な基礎的分析の成果と、この存在者の根源的な実存論的な学的解釈の課題

第一章 現存在の可能的な全体存在と、死へとかかわる存在

  • 現存在にふさわしい全体存在を存在論的に捕捉し規定することの外見上の不可能性
  • 他者たちの死の経験不可能性と全体的な現存在の捕捉可能性
  • 未済、終わり、および全体性
  • 死の実存論的分析を、この現象について可能な他の学的諸解釈に対して限定すること
  • 死の実存論的存在論的構造の下図
  • 死へとかかわる存在と現存在の日常性
  • 終わりへとかかわる日常的な存在と、死の完全な実存論的概念
  • 死へとかかわる本来的な存在の実存論的企投

第二章 本来的な存在しうることの現存在にふさわしい証しと、決意性

  • 本来的な実存的可能性の証しの問題
  • 良心の実存論的・存在論的な諸基礎
  • 良心の呼び声
  • 気遣いの呼び声としての良心
  • 呼びかけの了解と責め
  • 良心の実存論的な学的解釈と通俗的な良心解釈
  • 良心において証しを与えられた本来的な存在しうることの実存論的構造

February 03, 2015

序論 第二章 第七節 C

セカイ系の予備概念

「セカイ」と「系」とについての文学的解釈において明らかにされたことを具体的に思い浮かべてみるとき、これら二つの名称でもって指されているものの間の或る内的関連が、はっきりとする。セカイ系という表現は、だとすれば、すなわち、そのものを示す当の場所を、そのものがそのもの自身のほうから示すとおりに、そのもの自身のほうから見えるようにさせるということにほかならない。これがセカイ系とみずから称する作風の形式的な意味なのである。だが、そのように言いあらわされているのは、さきに「物語そのものへ!」と定式化された格率以外の何ものでもない。
 したがって、セカイ系という名称は、その意味に関しては、日常系その他の表示法とは異なる。日常系その他の表示法は、当該の系の特質をそれぞれの物語内容において名ざしている。「セカイ系」はその作風の特質を名ざしているのでもなければ、また、セカイ系というこの名称はその作風の物語内容を性格づけているのでもない。セカイ系というこの語は、この系において論ぜられるべき当のものを、いかに提示し取り扱うかということに関して解明するだけである。諸作品「について」の系ということが意味するのは、この系の諸特質に関して論及されるすべてのものが、直接的提示と直接的証示とにおいて論ぜられなければならないように、そのようにそれらの諸特質を捕捉するということである。根本において同語反復的な「悲劇的セカイ系」という表記も、これと同じ意味をもっている。悲劇とは、ここでは、たとえばケータイ小説でとられているやり方を意味するのではない——悲劇というこの名称も、これまた、証示することのないすべての規定を遠ざけるという一つの防止的な意味をもっているのである。悲劇自身の性格、つまり、系の種別的な意味は、「悲劇化される」べき当のもの、言いかえれば、作品の出会い方において文学的規定性へともたらされるべき当のものの「作品性」にもとづいて、まずもって確定されうる。形式的で通俗的な作品概念の意義は、キャラクターがおのれをおのれ自身に即して示すとおりに提示されるときには、キャラクターのあらゆる提示をセカイ系と名づけることを、形式的に正当化するのである。
 ところで、いかなる点を顧慮すれば形式的作品概念はセカイ系的作品概念へと脱皮するのか、また、いかにしてセカイ系的作品概念は通俗的作品概念から区別されるのか。セカイ系が「見えるようにさせる」当のものは、何であるのか。際立った意味において「セカイ」と名づけられなければならないのは、何であるのか。際立った提示ということの主題となるのが、その本質から見て必然的であるのは、何であるのか。明らかにそれは、差しあたってたいていはおのれをまさしく示さないところのもの、つまり、差しあたってたいていはおのれを示すものに対して秘匿されてはいるが、しかし同時に、差しあたってたいていはおのれを示すものに本質上属し、しかも、このものの意味と根拠をなすというふうに属している或るものであるところの、そうしたものである。

 セカイ系は、キャラクター論の主題になるべき当のものへと近づく通路の様式であり、また、その当のものを証示しつつ規定する様式である。キャラクター論はセカイ系としてのみ可能である。作品のセカイ系的概念は、おのれを示すものとして、キャラクターのキャラ、このキャラの意味、このキャラの諸変容や諸派生態を指している。だが、おのれを示すことは、気ままにおのれを示すことではなく、ましてや現われるといったようなことでもない。キャラクターのキャラは、「現われない」或るものがその「背後に」なおひかえているようなものでは、断じてありえないのである。
 セカイ系の作品の「背後に」は、本質上、他の何ものもひかえてはいないが、作品になるべき当のものが秘匿されているということなら、たしかにありうる。しかも、作品が差しあたってたいていは与えられてはいないという、まさにこの理由で、セカイ系が必要になるのである。隠蔽性 「作品」の反対概念なのである。
 作品が隠蔽されうる様式はさまざまである。まず、作品は、そもそも作品がまだ暴露されていないという意味において、隠蔽されていることがある。そうした作品の事態に関しては、それを識別しているとも、それを認識しているとも言いえない。つぎに、作品は埋没していることがある。このことのうちには、その作品が以前いちど暴露されていたのだが、ふたたび隠蔽におちいったということ、このことがひそんでいる。この隠蔽は全面的な隠蔽になることもあるが、以前暴露されていたものが、たとえ仮象としてでしかないとしても、まだ看取されうるというのが、通例である。けれども、仮象の数だけ「キャラ」がある。「変装」としてのこの隠蔽は最も頻繁で最も危険なものなのだが、その理由は、思いちがいをしたり誤ったりする可能性が、この場合には特別に執拗であるからである。そうした諸キャラ構造は、意のままになりはするものの、その土着性において遮蔽されているのだが、このような諸キャラ構造とその諸概念とは、おそらく或る「体系」内部においてはおのれの権利を主張することであろう。それらの諸キャラ構造と諸概念とは、一つの体系のうちに構成的に組み込まれていることにもとづいて、それ以上の弁明を必要としない「明瞭な」もの、だから、演繹をすすめてゆくのに出発点として役立ちうるものとして、ふるまうのである。
 隠蔽が秘匿の意味に解されようと、埋没の意味に解されようと、変装の意味に解されようと、隠蔽自身は、これはこれで二重の可能性をもっている。偶然的隠蔽と必然的隠蔽とがあるのであって、後者の必然的隠蔽は、暴露されたものが存立しつづけてゆく様式のうちにその根拠をもっているのである。根源的に汲みだされたセカイ系的概念や命題はいずれも、伝達された陳述としては、変質する可能性からまぬがれがたい。そうした概念や命題は、空虚な理解しかうけないまま次々と手渡され、その土着性を喪失して、宙に浮いたテーゼになる。もともとは「つかみやすいもの」が硬化して、つかみにくいものになる可能性は、セカイ系自身の具体的な仕事のうちにひそんでいる。そして、セカイ系というこの作風のむずかしさは、この作風自身にさからって、この作風を積極的な意味において批判的なものにするという、まさにこの点にあるのである。
 キャラと諸キャラ構造とが作品という様態において出会われる様式は、セカイ系の特質からまずもって勝ち取られなければならない。だから分析の出発点は、作品へと近づく通路および優勢な隠蔽をつらぬきとおす通行と同じく、それ固有のなんらかの方法上の保証を要求するのである。諸作品を「本源的」に「直覚的」に捕捉し究明するという理念のうちには、偶然的な、「直接的」な、無思慮な「直観作用」がもっている素朴さとは正反対のものがひそんでいる。
 ところで、セカイ系の予備概念が限界づけられたわけだが、これを地盤として「作品的」と「セカイ系的」という術語もそれぞれの意味を確定されうる。「作品的」と名づけられるのは、作品という出会われ方において与えられていて、究明可能であるものである。だから、作品的な諸構造という言い方がされるのである。「セカイ系的」とは、提示や究明の様式に属しており、またわれわれの作風において要求されている概念性をなすすべてのもののことなのである。
 セカイ系的な意味における作品は、つねに、キャラをなすものだけであるのだが、キャラはそのつどキャラクターのキャラであるゆえ、キャラから邪魔物を取り払うことをめざすためには、キャラクター自身を正しく提出することが、あらかじめ必要である。このキャラクターは、このキャラクターに純正に帰属している通路様式において、同様に正しくおのれを示さなければならない。かくして、通俗的作品概念がセカイ系的に重要になる。範例的なキャラクターを「セカイ系的」に確保しておくという予備的課題は、本来的分析論にとって出発点にほかならないのだが、それはつねにすでにこの本来的分析論の目標にもとづいてその下図を描かれているのである。
 その作品内容から解すればセカイ系は、キャラクターのキャラについての系——キャラクター論である。さきにキャラクター論の諸課題を解明したときに、主人公というキャラクター論的・キャラクター的に際立ったキャラクターを主題とする基礎的キャラクター論というものの必然性が生じたのだが、しかもそれは、この基礎的キャラクター論がキャラ一般の意味への問いという主要問題に当面するというふうに、生じたわけである。以下の根本的探究自身から明らかになるであろうとおり、セカイ系的悲劇の方法的意味は成長である。主人公のセカイ系の系は、成長スルという性格をもっているのであって、このものをつうじて、主人公自身に属しているキャラ了解内容には、キャラの本来的意味と、主人公に固有なキャラの諸根本構造とが告知される。主人公のセカイ系は根源的な語義における成長譚なのであって、その根源的な語義にしたがえば、この語は成長の仕事を表示している。ところが、キャラの意味と主人公の諸根本構造とが暴露されることによって、主人公とされるにふさわしくないキャラクターのあらゆる探究をさらにキャラクター論的にすすめてゆくための地平が、総じて明らかにされるかぎり、この成長譚は、同時に、あらゆるキャラクター論的な根本的探究の可能性の諸条件を仕上げるという意味での「成長譚」になる。また最後に、主人公は、すべてのキャラクターに対して——つまり、実存の可能性のうちで、キャラクター論的優位をもっているかぎり、主人公のキャラの成長としての成長譚は、特殊な第三の意味を——つまり、実存の実存性の分析論という、文学的に解すれば第一次的な意味を、含んでいる。そうだとすれば、この第三の意味での成長譚が主人公の歴史性を歴史学の可能性のキャラ的条件としてキャラクター論的に仕上げるかぎり、この第三の意味での成長譚のうちには、派生的な意味でしか「成長譚」と名づけられえないもの、すなわち、歴史学的な諸精神科学の方法論が、根づいているわけである。
 文学の根本主題としてのキャラは、いかなる類でもないのだが、それでもこのキャラはあらゆるキャラクターに関係する。キャラおよびキャラ構造とは、あらゆるキャラクターと、キャラクターに属しているものとしてのあらゆる可能的な規定性とを越え出ている。キャラは端的な超越者なのである。主人公のキャラの超越は、そのうちに最も徹底的な個体化の可能性と必然性とがひそんでいるかぎり、或る際立った超越である。キャラを超越者として開示することはいずれもみな、超越論的認識である。セカイ系的真理(キャラの開示性)は超越論的真理なのである。
 キャラクター論とセカイ系とは、文学に属する他の諸専門分野とならぶ二つの異なった専門分野ではない。これら二つの名称は、文学そのものをそれぞれ特徴と取り扱い方とにしたがって性格づけたものである。文学は、主人公の成長譚から出発する普遍的なセカイ系的なキャラクター論なのであって、主人公の成長譚は、実存の分析論として、すべての文学的な問いの導きの糸の末端を、それらの問いがそこから発現し、そこへと打ち返すところに、結びつけておくのである。
 セカイ系の予備概念の解明によって暗示されているのは、セカイ系にとって本質的なことが、文学的な「方向」として現実的になるという点にあるのではないということ、このことである。現実性よりも高次のところに可能性はある。セカイ系の了解内容は、ただただ、セカイ系を可能性としてとらえることのうちにのみひそんでいる。