June 29, 2014

いつでもどこでもブックオフ280円棚で買えるブリットポップ大名盤10選!

90年代の昔からブリットポップは夏の季語。夏の気分の盛り上がるブリットポップの名盤たちを、Anyway, Anyhow, Anywhere、入手しやすさは正義、という観点から紹介するよ。

二、三軒も回ればほとんど確実に揃えられ、運がよければ最初の店でコンプリートでき、3000円でお釣りまでもらえて暇つぶしにもなるというイージーモードながら、どれもこれもが折り紙つきの優良物件ばかり。
気に食わなかった場合は、返品できないけど買取してもらえばいいじゃない。



Ash - 1977 (1996)
アッシュはどのアルバムもノリがよくてキャッチーで、そしてちょっぴりセンチメンタルなエターナルユースな感じで……あっ、これが疾走感ってやつですね! という風に最高なので、何を選んでも変わらないというか、目に入ったら買っておこうってレベルだけど、一枚選ぶとすればこれかなって。

bis - The New Tansistor Heroes (1997)
オタク趣味と爆発的なバカ騒ぎっぷりに思わず噴き出してしまうこともあり、人前で聴くことがためらわれるビス。ディスコだパンクだ何だというより、はしゃいでる子供と表現した方が正鵠を射ている。何よりやはりマンダリンはアイドル。

The Bluetones - Expecting To Fly (1996)
味わい深い佳曲揃いであるものの、派手さに欠けるためかどこに行ってもほとんど必ず見掛けるブルートーンズ。ひょろひょろした声質に好みは分かれるかと思うけど、とりあえずBGM用にでも買って帰って部屋をブルーに塗りかえよう。

Blur - The Great Escape (1995)
人気絶頂期のブラーが発表したこのアルバムは、僕がはじめて買ったブリットポップでもある。パークライフばかりちやほやするのはやめてもらいたい。

The Boo Radleys - Wake Up! (1995)
美しいメロディーとハーモニーで90年代のビートルズとの呼び声も高いブーラドリーズ。最大のヒットとなった今アルバムの無邪気っぽいポップさは、ピクニックや子供の情操教育にもってこいなんじゃないかな。いやほんとに。

Menswear - Nuisance (1995)
音楽性よりもルックスで人気を博したとバカにされ、バンド自体も儚く消えていったメンズウェア。別の言い方をすれば、イケメン揃いのストレートなロックバンドと言えなくもない。遭遇率はブルートーンズに並び、目にするたびに悲しい気持ちになるので見掛けたら買っておいてあげて欲しい。シニカルな歌唱スタイルは広い心で迎えよう。

Oasis - Definitely Maybe (1994)
いつだったかノエルがオアシスの最高傑作は1stだって言ってた。今年になって20周年記念リマスター盤とかいうのが出たけどどうしようって感じだよ。

Ocean Colour Scene - Moseley Shoals (1996)
こういう渋いR&Bバンドまでもがバカ売れしたというのは功罪あるのだろうけど、まあそういうのとは関係なく、オーシャンカラーシーンにはソウルがあると思う。ところで今ウィキペディア見て知ったんだけど、この人たち内陸出身なんすね。

Supergrass - I Should Coco (1995)
ブリットポップの軽薄な盛り上がりっぷりを象徴的に伝えるスーパーグラスのデビューアルバム。単に軽薄なだけでなく背景にはブリティッシュロック史的な蓄積が背景にはあったということを見て取ることもできるけど、そんなことがどうでもよくなってくるほど能天気なのが笑える。

The Verve - Urban Hymns (1997)
ブリットポップと夏の終わりを告げるヴァーヴ97年の作品。誰が聴いても名曲ですなあと感慨を漏らす、過ぎ去った夏の甘苦い思い出を愛惜するのにこれ以上ふさわしいアルバムはないですよ。


今日のところはこれくらいかな。

January 31, 2014

Serial Experiments Lain

グーグル先生によると、1998年に制作されたアニメ、ゲーム、絵本などによるメディアミックス作品で、現在でも根強い人気があるとかなんとか。僕はアニメ版しか見てないけれど、それぞれが独立した作品として成立しているそうなので特に気にしてない。

先日見たこのアニメがあまりに面白かったため、これは人にも勧めなければならない、という強い使命感が湧き立った。まさか、この僕が進んで人にアニメを勧めるようになるだなんて、ついこの間までは思ってもみなかった。つまりそれほど面白いというわけ。
と言ってわざわざその面白さを説明するというのは、はなはだ難しくもあるし面倒でもある。まあ、百聞はなんとやらという言葉もあるように、下手にくどくど言うよりも、YouTubeに公開されている第一話を見てもらった方がずっと話は早い。話す必要すらもない。早速リンクを貼っておこう。

と、そこまで考えたところで一つ疑念が湧く。第一話だけを見て面白さが伝わるだろうか、ちょっと厳しいんじゃなかろうか。そこで、以前に見た記憶を隅に追いやり、逆にお勧めされたような心持ちで、あらためて第一話を見てみることにした。

全然面白くない。それどころかクソつまらない。そういえば、僕も最初はあまりのつまらなさと見続ける辛さにムカついてたもんだった。
不安を煽る空気が始終漂っている上に、現実感に乏しい不気味な映像が延々続く。主人公をはじめ登場人物はみんな何を考えているかわからないし、さらに見た目もどこかおかしい。話は二十字あれば事足りる程度にしか進まず、それも愉快な話とは決して言えないときた。この先胸躍る楽しい展開が待ってるようにもあまり見えないし、ほんとどうすんだこれ。まるでお勧めにならない。
こんな気の滅入るものを、「これから面白くなるんです、どんなに辛くても我慢して、最後の十三話まで全部見ればあなたにもわかります、さあ続きを見ましょう!」などと勧められても、それこそ頭のおかしい人間が頭のおかしいアニメを絶賛してて怖い、という風にも受け取られかねず、これだから人にものを勧めるのは嫌なんだ。

という風にして、色々懸念すべき点はあるけれど、とにかくこのアニメは面白いんです、どんなに辛くても我慢して、最後の十三話まで全部見ればあなたにもわかります、さあレインを見ましょう!

May 13, 2013

子供SF

小学校に上がったころ、同じ団地に住む兄ちゃんちから本を段ボール何箱分かもらった。学研の図鑑や子供向けのSF小説なんかが入っていて、僕のサイエンティックな精神は大いに啓発されたものだった。
大半の内容もその題名すらも今では忘れてしまったけれど、この頃ではインターネットという大変便利なものが普及している。これを利用し、曖昧で断片的な記憶を手がかりにして、読んだ小説を探してみることにした。
結果、判明したのは以下の二冊のみだったが、何も見付からないまま終わったわけではないというだけでも上首尾と言える。


『夕ばえ作戦』光瀬龍 
「古道具屋で手に入れたタイムマシンで江戸時代にタイムスリップした主人公が、野球の要領で手裏剣を打ち返したりして忍者と戦う話。みんなで多摩川を渡ったりする」

作者はなんでも有名な作家らしく、ウィキペディアにも記事はある。本作も何度か復刊されていて、数年前には押井守監修によって漫画化もされているそうだ。アマゾンにもしっかりあらすじが載っている。
大岡山の中学生・砂塚茂が古道具屋で手に入れた奇妙な機械はなんとタイム・マシンだった! 機械をいじっているうちに 突如、江戸時代の大岡山に降り立っていた茂が見たものは、村を襲う風魔忍者たちの姿だった。人々を救うべく茂は立ち上がるのだったが…。過去と現在を縦横 無尽にかけめぐる奇想に満ちた戦いを描く。
四、五十年前に書かれた話だそうだけど、舞台はほとんど江戸時代なのであまり気にならない。大岡山だの太子堂だのといった地名が頻出し、当時はそんな別世界のような固有名詞はあらかた無視していたわけだが、今となっては大体把握することができる。昭和生まれなので田園都市線や目蒲線と聞いて困ることもない。
繰り広げられる数々の忍術、特攻野郎Aチームなど、子供心を刺戟する細かい描写は今でも充分魅力的だ。子供ながらにふざけるなと思いながら読んでいた戦闘シーンは、今読んでもふざけるなと言いたいことに変わりはない。まあこのふざけたシーンも、今読めばなげやりというか適当すぎて、その奔放さが笑えてくるわけで、これが大人の余裕というものに違いない。
記憶違いとしては、時をかける女忍者なんてものが登場し、おまけにロマンスにまで発展していたということ、主人公の茂少年がとんでもない不良だったことなどがある。


『ボクに会ったぼく』野火晃
「主人公が、転校生=唐木田ミキについて「ミキ=未来」、「唐木田未来」→「未来・唐木田」、つまり「未来から来た」!ピコーン! などというわけのわからぬ 連想によって、彼女が未来人なのだと確信する話。同じ主人公が今度は自分自身が過去へタイムスリップし、幼い自分を大怪我から救う。テレビ電話ほかすごい 機能満載の腕時計が出てきて、現代に戻ると身体に残っていたはずの傷跡が消えていたりする」

作者は特に有名な作家でもないらしく、ウィキペディアにも記事はない。本作も、凡百の児童文学に埋もれ忘れ去られたものの一つなようで、アマゾンには書影も取り扱いも、もちろんあらすじもない。仕方ないから自分で書いた。
ごく普通の小学六年生三枝和久は、ふしぎな転校生の正体を探るうちにあることに気づくのだが……。転校生・唐喜田ミキの秘密をめぐって巻き起こる 騒動を描いた『なぞの転校生』の他、ふとしたきっかけで過去へとタイムスリップし幼い頃のクラスメイトや自分自身と出会う表題作『ボクに会ったぼく』の短編二作を収録。
話が短すぎて、あらすじを書くにも張り合いがなさすぎて困る。二作で一冊なのだが、あとがきを入れても一二〇ページしかなく、ということはどういうことかというと、どちらの話も五十ページちょっとだということであり、しかもその中には挿し絵も含まれ、 子供向けなので当然字もでかいし漢字も少ない。最後まで一気に読みきってしまいました! これである。
「サブ・リミナル・プロジェクショ ン」、「毎秒二万サイクル以上の音波」など、子供心を刺戟する科学っぽい言葉は、大人となっても盛り上がる。若干ほのぼのとしてしまうけれども、それはそれ。子供ながらにふざけるなと思いながら読んでいた謎解きシーンは、今読んでもふざけるなと言いたいことに変わりはない。まあこのふざけた推理がなければ、この作品が僕の記憶に深く刻みつけられることもなかったわけで、世の中何がきっかけでどうなるかわかったもんじゃない。
記憶違いとしては、「唐木田」ではなく「唐喜田」だったということ。タイムスリップが夢オチだったということ。以上二点である。


理解できず読み飛ばしていた箇所の意味が明瞭になった今では、改めて読み返してみると発見が多い。同時に、当時つまらなく感じた部分は今読んでも相変わらずつまらないもので、子供の感想もなかなか馬鹿にしたもんじゃないとも思う。
意外だったのは、二十何年ぶりに読んだというのに懐しさがまったく感じられなかったことで、これには色々と原因が考えられるが、たぶん僕がそれほど熱心な読者ではなかったか、記憶が大方失われているせいだろう。

April 15, 2013

サイバーパンク

サイバーパンクというのは、退廃的で暴力的な近未来社会を舞台に、個人や集団がより大規模なネットワークに接続ないし統合された状況(またはその過程)、さらに、構造や体制への反抗を主題とするSFのサブジャンルらしい。機能や意識を機械的に拡張された肉体や、ネットワーク上の仮想空間などを小道具として、疲弊しきったテクノロジーや社会・経済・政治などをメタ的に描くことが特徴だという。
もともと「サイバーパンク」という単語は、とある作家によるとある小説のタイトルだったものが、とあるSF編集者により、それまでの主流だったハードなSFやファンタジックなSFに対するカウンター的なジャンルを指す言葉として使われ始めたと言われている。さらに、こうしたサイバーパンク作品に描かれる独特の技術や世界観もまた「サイバーパンク」と呼ばれるそうだ。

サイバーパンクという言葉の定着した80年代中頃よりも古い作品である『ブラッド・ミュージック』や『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』なども含まれるとされる。疲弊した技術や、人間とコンピュータとの融合といったサイバーパンク特有の設定は登場しないながら、テーマやアトモスフィアがメタでパンクなため「さらに根源的(あるいは前駆的)なサイバーパンク」と解釈される模様だ。

上に述べた正統サイバーパンク作品の影響を受け、同様の小道具や雰囲気を用いた作品が「サイバーパンク」を名乗ったり、また、そう言い習わさたりしているが、その多くはサイバーでパンクなテーマやメタな視点に欠け、ただ見てくれを真似ただけの紛い物と断罪されがちであるのは世の常であると言えるだろう。

参考:ウィキペディア

February 02, 2013

【体罰の会】趣意書

 人間は、鍛錬によって本能を強化し、理性を作り上げることで人格を進歩させる。自己による鍛錬だけで進歩は不可能であり、他律的な矯正が必要である。自主的に進歩できる者がいたとしても、多くの怠惰な者は取り残される。怠惰な者への矯正がなければ怠惰を肯定することとなり全体の進歩が遅れ、秩序は乱れ、民度も高まらない。
 子供に自主性は期待できないため、信賞必罰、叱責だけでは効果は少ない。直接的な強制による矯正が必要となる。矯正に最も効果的なのは体罰である。

 体罰には苦痛が伴う。苦痛は、それを克服させるための行動を起こさせる。苦痛を避けると進歩できないため、進歩に苦痛は不可欠。体罰を否定すれば進歩もしない。その結果、疎外感や劣等感によって体罰以上の不快が生まれ、社会に適合できなくなる。
 教育的進歩を遂げなければ社会人とはならない。体罰の否定は教育そのものの否定である。教員による体罰は学校教育法により禁止されているが、子供は体罰を含む教育を受ける権利があり、国家も教育の一部として体罰を与える義務がある。体罰は進歩を目的とした教育なのである。

 家庭での親による体罰は禁止されてはいないが、家庭体罰が認められ学校体罰は禁止されているという不均衡について科学的根拠は示されていない。

 近年、親による体罰を虐待とみなす事案が増加している。児童虐待も増えているが、児童虐待は体罰ではなく虐待である。
 体罰を虐待と混同する法制度は科学に反する。体罰と虐待は、進歩を目的とするか否かによって峻別される。間違った考え、人間力の劣化が原因である虐待は、進歩を目的としていない。

 「種内攻撃は善である」と科学的に証明されている。善悪は理性ではなく本能によって決定され、種内攻撃は秩序の形成と維持のための本能的行動として種族維持に必要なものなのである。体罰はこの種内攻撃にあたる。
 人間以外の動物は虐待を行わず、犯罪も犯さない。このような行為は、本能が劣化した人間の歪んだ理性によるものである。

  戦後の理性教育によって体罰が禁止され、個人主義、放任主義が蔓延した結果、親子関係は崩壊し、イジメや不登校、自殺などが起こった。教育全体が回復不能となり、社会秩序は崩壊寸前にある。

 悲観的な状況だが、平成21年の最高裁判所の判決に希望を見出すことができる。最高裁は、男児に蹴られた教員が、男児をつかみ壁に押しつけた行為について、「体罰には当たらない」と判断した。この行為は明らかに体罰である。最高裁判決は、体罰を肯定したか、限定的に認めたものである。
  教育を再生するためには、教育に科学性を回復することが必要である。まず学校教育法を改正するべきであり、体罰の方法や程度に関する法整備をしなければならない。

 体罰に対する否定的なイメージを払いのけるのは並大抵のことではないが、この洗脳からの解放が教育再生の第一歩である。

 といった理由で体罰の会は設立されたらしい。

October 28, 2012

ネグレクト

たいていの娯楽は、何かしら面白い点がある。何が面白いのかまったく理解出来ずとも、他の誰かにとっては愉快なところがあるわけで、でなければ世に出てこない。その面白さを見分けられないのは、了見の狭いせいであり、しかるべき観点からすれば大傑作、ということもあるのかもしれない。
とはいってもやはり、クソみたいな作品というのももちろんこの世にはあまた存在する。しかも大量に。不完全、奇形のまま作品を放り出した無能な作者の無思慮と無神経さを思えば気も滅入る。
愚鈍な作者を蔑むには少しばかり趣味と品性のよすぎる僕は、ちっとも楽しくないのである。



August 02, 2012

海底人

もともとどこかの星から飛来した宇宙人の末裔で、何らかの理由で海底にとどまり続けている。高圧の環境に適応していて、大気中や深度の浅いところでは生存できず、深海以外では宇宙服のような加圧服を必要とする。かつての「火星人」のような外観をしていて、つまりタコ。硬い骨格を持たない軟体動物。力は弱いが人類をはるかに凌駕する科学力を持っている。ごく稀にその製品が海岸に流れ着くことがあるが、科学力が違いすぎるため、普通の人類にはそれが何なのかまったく理解できなきほどである。そのため、長い間存在が知られることはなかった。
長年深海でひっそりと暮らしていたが、人類による海洋汚染、海中探査に危機感を抱き、地上侵攻を計画する。その際の兵力として利用するため、人類と海洋生物を掛け合わせたハイブリッド生物を作り出す。
ハイブリッド生物は、人類の知能や頑丈さ、地上での行動力と、イカやタコの長所(イカスミとか光ったりするのとかピコピコとか)を併せ持つ。人類の幼体(子供)を基体として、外科処置と遺伝子操作やらなんやらによって生産される。海底人と地球上の生物とでは、根本的な遺伝子構造とかそこらへんから違うことから、研究途上であり、現在のところはワンオフの実験体である。エビに含まれる何とかというタンパク質が麻薬として作用し、まあギャング的なあれ。強制的な洗脳教育を施され、自分たちを人類ではなく海洋生物の一種だと思い込んでいる。



February 16, 2012

AKG


AKGは三台目。K519DJを買った。

ZX700は存在ごと失念していた。ごめんソニー。

おもちゃに見えないヘッドフォンを掛けて出歩いては正気を疑われるため、安っぽいモデルを選んだわけだが、予想を上回るいい加減な作りが笑わせる。面白い。

音はまあ、予定通り。ロックンロール。

February 07, 2012

ラブコメ

ラブコメを書こうと思った。それっぽい設定とあらすじを三十分で作り上げ、それから三日、夜を徹して風呂にも入らず、執筆に没頭した。
ある程度の分量になったので、途中で読み返してみたのだが、何故だろう、どこにもラブとコメが見当らない。これはまだ導入部分なので仕方ない、物語が進めば自然とラブもコメも生まれてこよう。導入にしては些か冗長だが、後でばっさりカットしておけば問題はないだろう。そう考え、また書き進める事にした。
さらに二日経った今、ラブコメであるはずの物語には、ラブもコメもその兆しすら見えない。相変わらず風呂にも入っていない。目の前のディスプレイには、鬱屈した男女の、希望もなく、展望もなく、ただ退屈さに耐えるだけの、遣り場のない性衝動と不信と欺瞞に満ちた日常が延々描か……死にたい。

January 31, 2012

言いません

佐藤友哉は「自身の身体と戦っている」のだと作品の中で言う。どこからともなく湧き出る衝動を、それを閉じ込めようとする身体から発散させる戦いである。この戦いに勝つということは、衝動が現象を通じて他者に認識されるということだ。
この戦いの勝利とは、精神の解放なのかも知れない。それは恐らく、我々が安息の時を手に入れ、表現をやめる時であるだろう。しかし、我々がこの戦いに勝利することは決してない。生きる事自体、敗北の系譜なのである。戦いは一生続くだろう。
僕はちゃんと戦えているのか、僕はちゃんと戦えていたのか。佐藤の作品を見て思う。
彼は、彼の身体は、自在に語り尽くしているように見える。それでもまだ語るべき事があるという事実は、どれほど年齢を重ね知識を蓄えたとしても、表現への欲求に囚われる人の業の深さを感じさせる。知識も語るべき思想も持たない自分が、一丁前に声を荒げて語りたがろうとしている事実を恥ずかしくも感じる。それでも僕は、「文章を書く」という方法しか知らなかったのだ。
恐らく文章を書くという手段は、表現として最も手軽なものだ。しかしそれは、制度化され、教育によって流し込まれてきた記号としての言葉を、ただ惰性に従って書き連ねていたに過ぎない。僕はもっとストイックに戦う事が出来るのかも知れない。そしてそれは、自分が今まで本当に戦ってはいなかったという事でもある。