January 10, 2012

おしゃれゲーム

人は、そのままではおしゃれな存在ではない。社会と孤絶し単独で生きる場合を想定してみれば、そこに「おしゃれ」は存在しない。つまり「おしゃれ」とは、個人の感性(センス)などといったものではなく、生活の中で他者から獲得する社会的評価の一種である。
  1. 対象についての知識や理解がない場合でも、おしゃれかどうかを判断することはできる。このことから、おしゃれというものの基準は、その存在を明確に意識する必要はない。
  2. ある程度の個人差はあるものの、属する集団の中で支配的な価値基準である。
  3. 恒常的なものではなく、時とともに変化してゆく。
おしゃれという評価は、基準が明確に意識されていない状態においてのみ下される。基準が意識されている場合、おしゃれかどうかというよりも、単に基準に合致しているかどうかが問題とされるからだ。おしゃれだとされる対象と、その基準についての無知によって、おしゃれは肯定的評価として認められるのである。つまり「おしゃれ」というのは「よくわからないけど何か素敵な感じがする」ということを言い換えたものなのである。別の言い方をすれば、おしゃれという評価は、神秘性がその支柱となっているわけだ。
おしゃれに関する基準が定着するのには、「模倣」が多くの役割を担っている。
日常生活のさまざまな場面で、、自分には充分な情報がないとき、他の人々が何をしている見るのは合理的な戦略といえる。
おしゃれ基準がはっきりと了解されていない場合、個人は集団内の周りの人間を互いに模倣し合うことが最適な戦略となる。この相互の模倣が繰り返されることで、特定の基準がおしゃれなものとしてその集団内に定着するようになる。新たなおしゃれが集団の中で自然発生し、その大部分は埋もれたまま消えていくが、いくつかのおしゃれは相互的な模倣を通じ、全体の基準として採用される。

世間には多くの集団が存在し、それぞれ異なった基準によっておしゃれを評価し合っている。排他的な基準を持つことも多く、Aという集団ではおしゃれだと評価されることが、Bという集団ではまったく評価されないなどといった例もこと欠かない。
おしゃれは、それぞれが周りの人間からおしゃれという評価を多く得ることを目的とする、一種のゲームだと見なすことができる。このゲームを展開する上で不可欠なことは、第一に自分のおしゃれの基準と支配的な基準の両方を把握することだろう。
おしゃれという評価は相対的であり、その基準は広く知られていない方が有利である。おしゃれの基準や、おしゃれな物事に関する知識を占有することができれば、自分に有利となるよう、基準を誘導することさえ可能となる。憧れを維持するために、おしゃれというものを神秘的な様相を纏う性質のものと思わせた方が得策である。

基準の分裂や細分化は、趣味の多様化が原因というだけでなく、神秘性を高める役割を果たしている。基準を満たす条件が複雑さを増してきているということも指摘できるだろう。また、これらは個人の集団に対する帰属の意識を強め、集団自体の維持にも一役買っている。

ゲームに積極的に参加しないことを選択する人間も一定の割合で存在する。彼らは、おしゃれという評価を必要としない、あるいは、おしゃれにかけるためのコストを他の物事に振り向けていると思われるがちであるが、社会的生活を営んでいる以上、他とは別の基準に従っているものと考えた方が妥当である。


以上の考察から導き出されるおしゃれ戦略最適解とは以下のようになる。
  • 周りの人間にあまり知られていない対象を扱えばよい。ただし、それにはエートスが含まれているものと一般に思われていなければならない。あまりに知られていないと、おしゃれどころの話ではない。
  • 神秘的に振る舞うこと。神聖で侵しがたい雰囲気を漂わせていれば、それはそれでおしゃれに見えるかも知れない。
  • 頭に「おしゃれ」と付けなくてもおしゃれなイメージのあるものは、おしゃれを期待できる。おしゃれ喫茶店よりもただのカフエを選んだ方が無難だろう。また、「おしゃれ」と付けなくてもおしゃれなイメージのあるものは、むしろ「おしゃれ」と付いていない方がおしゃれである可能性が高い。おしゃれ喫茶<おしゃれカフエ<カフエである。
  • 無知な人間は、より多くの物事についておしゃれだと見なす。自分以外の人間を無知の状態に留めておくことが望ましい。周囲の人間が無知であればあるだけ、必要なおしゃれ力は小さく、得られる評価は最大となる。よって、おしゃれゲームを展開するには、自分たちのおしゃれ基準に関して無頓着な集団が適当である。
  • 集団内でのおしゃれの序列は、おしゃれ上級者による方向付けや外部からの影響、内部での変動が起きたとしても、全体としての分布は変化しない。
  • 万が一おしゃれ上級者の群れに潜り込んでしまった場合、傍から見ればださい集団なので一刻も早く抜け出すことを考えた方が得策である。
  • 要するに、おしゃれについていくら頭を悩ませたところで徒労に過ぎない。気楽に考えた方がいい。

January 02, 2012

ロックンロールとセンチメンタリティ

 聴くだけで特定の情動を喚起する音楽は凄い。でも、自分の感情をわざわざ引っ掻き回されるがままにしておくってのは、あまりいい気持ちがしない。

 ロックンロールを聴きながら歩いていたら、ギターの音でお正月特有の感傷的な気分が増幅された。感傷というのはなんともアイロニーだ。僕らは普通、気晴らしのために音楽を聴くわけだけど、気晴らしのために感傷的になるというのも、考えてみれば変な話ではある。

 前から思っていたんだけど、ロックンロールの本質はセンチメンタリティなんじゃないんだろうか。センチメンタルはロックンロールの一要素に過ぎないのではなく、むしろロックンロールがセンチメンタリティの表現態だったというわけだ。ロックンロールってセンチメンタルって意味なんじゃないかな。
 にこにこしたおじさんによるオールディーズからは、ロックンロールなんて感情は湧かない。でも、かつてそれが本物のロックンロールであったと知りながら、それが今ではすっかり失われているという状況は、センチメンタルという意味で激しくロックンロールだろう。
 
 我ながら、これはいいロックンロール解釈だと喜んでいたが、恣意的な矮小化だとしてロックンローラーに総括されそう。センチメンタルすべてがロックンロールだということにもなりかねない。いよいよ人との会話が成立しない。成立したとして、あまり嬉しくない。

December 28, 2011

今年観た映画を大いに語る

今年観たのは、デンデラとけいおん!の二作。僕としては多く感じるのだけれども、多いか少ないかと言ったら普通くらいだろう。両方とも、まさか観に行く事になるとは思ってなかった。
映画の面白さというものが判りかねるので、何を言っても、映画好きには笑われたり怒られたりするだろうが、こればかりは仕方ない。そんな事よりまず、映画館まで二度も足を運んだ事を褒めて貰いたい。

デンデラ
 口減らしの為に村から捨てられた老婆達が絶望に抗う為に作り上げたデンデラという共同体が、クマという圧倒的な暴力に蹂躙され崩壊してゆく中、望んだわけでもないのにデンデラに投げ込まれてしまった一人の老婆が、個としての意志を獲得する話。
 それまでは村民Aという役を何の疑問も抱かないまま生きてきたお婆ちゃんが、自らの生きる意味といったそんな感じのものを主体的に作り上げ引き受けるに至るあれやこれやを描いたみたいな、そんな文学的な映画だったはず。最後の爆発はいらないと思った。

けいおん!
 女子高生五人組がいちゃいちゃしながらロンドンを観光して、背伸びをせず自分らしくあることの大事さと、同じ時間を過ごしてきた友達の大切さに気付く話。いちゃいちゃ八割友情二割といった配分で、ちゃっちゃと話を進めて貰いたかったところだけれど、しかしそういう映画なんだと思えば、文句を付けるべきところでもないのかもしれない。
 頭を悩ます難解な展開もなく、シンプルでわかりやすいいい話である。何回も観る人のためでもあるんだろう。ユーザーフレンドリーである。

 中高年のおばさまばかりのデンデラ、若い男性中心のけいおん!という客層の対照的なところなども興味深かった。この二つの映画作品を比較してみるのも面白そうだが、忙しい上に面倒臭い。誰かやればいいとは思う。
来年はどんな心躍る映画を観られるのか、今から楽しみである。

November 18, 2011

BJM

あまりバンドのバイオグラフィなどには興味を持たないのだが、アルバム十五枚がiTunesライブラリに入っているというのに、いつどこのバンドであるかも知らないというのは、さすがにちょっと不健全なのではないかと僕は考えた。

 こんな時にインターネットは便利なもので、洋楽に詳しい知り合いを持たない僕ですら、家にいながら即座にあらゆるバンドの情報を得る事が出来るのであるが、ウィキペディアには記事がなかった。この国には文化というものが存在しないのだろうか。国内盤のライナーに書かれた解説もろくに読まないような僕に、世のロックファンの怠慢を裁く資格はない。そもそも、現代はグーグル先生他、翻訳のエキスパートがいたる所で暇とリソースを持て余しているわけで、日本語情報の不足を嘆く必要はどこにもない。

 ざっと見た感じ、六十年代サイケデリアだとかインディ・ロックだとかオルタナティヴだとか、そんな専門的で難しい用語を使われてもよく判らないのだけれども、どうやらそういう感じらしい。まあ、バンド名を見りゃ判る。

 一体何を調べようとしていたのか判らなくなってきた。簡単に言えば、アルバムを聴ければ他はどうだっていいわけだ、もっともな話。

November 12, 2011

ランゲージ

もう言っとる事が全然意味判らんねこれ。何言ってるんすか? みたいな感じ。
辻褄が合わんし、会話も出来ん。

読むのも聞くのも変わりなく、ともかく意味の解析に手間取り、そっちの処理に追われて満足な返答も出来ない。

このままではいけない、取り戻せゲシュタルト! 全部ツイッターが悪いんや!
という風にして僕はブログの再開を心に固く誓い、取り敢えずラノベでも読んでリハビリに励もうとブックオフへ向かった。

July 23, 2011

パソコン

 そろそろパソコンを手に入れておかなければいけない。iOSのアップデートもあるし、iPhoneにもしもの事があった場合にも、現状レストアが出来ないとあっては、不安で寝付きも悪い。ブログ書くのも面倒臭いったらないもんだ。
 でも高いしなあ、かつかつだしなあ、かといってウィンドウズマシンとか買ってもストレスが溜まって血管切れるからなあ、などとくよくよしているわけだ。
 中古もそれほど安くはないし、長く使うものである。新しく買うとして、ポリカーボネートMacBookが消えてしまった今、選択肢はMBAかMBPの二つに絞られてしまう。いっそ両方買えれば問題はないのだがそうもいかない。

 新しいパソコンを手に入れれば、まずはiTunesのライブラリをどうするかを決めておく必要がある。
 タイムマシンを使って丸々復旧するというのも考えてみたが、ビットレートが128だの192だの256だの312だのと混在している状態というのは、どうにも気持ち悪い。といって、一からCDを読み込むというのは途方もない作業だ。持っている曲は多いにしても、履歴などを辿ってみると、頻繁に聴く曲はそう多いわけでもない。取り込むのは最小限の楽曲に留め、ロスレスなり何なりと高音質なフォーマットにしておくのもいいかも知れないと思う。アルバムで二十~五十枚くらい入れておけば、大体不都合はないように思う。容量の小さいMBAでも充分賄えるというわけだ。

 妄想に終わりそうで気が滅入る。

July 16, 2011

0715

 書きながら考えるのがよろしくない。考えてから書くべきだ。
 書くことはそのまま考えることで、書くことによってはじめて考えることが出来る、とも言える。本当に考えなくなった。
 考えなくても間違いを犯さないのなら考える必要はない。考える事によって間違いが起こるのだから、むしろ考えない方がより正しい。でも、考えることは意思によってはとめられない。正しい方向にでも、間違った方向にでも、独りでに勝手に進んでいくものだ。何も考えずにいればなおさらだ。

 意志の力を過信してはならない。覚悟の存在を認めてはならない。そんなものでどうにかなるような問題は、初めから問題ですらなかったのだ。結果として得られた陶酔を要因と考えるべきではない。

July 01, 2011

長文に挑戦

 ここのところさっぱり頭を使っておらず、考えることに困難を覚えるようになってきた。元からそうだったのかも知れないと今思ったのだが、このようにあっちらこっちらと考えが飛び、何を考えても結論まで辿り着けない。特に困りはしないのだが、少々みっともなくはある。
 そういうわけで、ある程度一貫性のある文を書くよう努めることにより、構成力、論理力の向上を図ろうと思った。
 そう思ったのだが飽きてきた。
 まだ原稿用紙半分にも満たないというのにこの有様である。
 構成的、論理的な文を書く努力は、集中力や持続力を高めることにも有効に違いない。
 あとはなんだったか……
 まあ、あんま妥協したものを書かないように気を付けたい。なんか定型文とか慣用句みたいなのを安易に使ったり、言葉を適当に選んだりするのはよくないし、ちゃんと語句を使うことを学ばなければならないような気もする。
 気負って進めば一字も書けなくなること請け合いなので、難しく考えずに続けていきたい。

April 12, 2011

月末

 ツイッターのお陰で滅多に更新しなくはなったけれども、アリバイのためにブログも続けておかなければならない。

 趣味はロック音楽を聴く事です。
 

December 08, 2010

フューチャー

 ウィキペディアに、The Futureheadsのギターが1982年生まれだとあった。他のメンバーについては判らない。判ったことは、ヴォーカルとドラムが兄弟らしいということくらい。言われてみると、そうかと納得出来ないこともない。