February 02, 2013

【体罰の会】趣意書

 人間は、鍛錬によって本能を強化し、理性を作り上げることで人格を進歩させる。自己による鍛錬だけで進歩は不可能であり、他律的な矯正が必要である。自主的に進歩できる者がいたとしても、多くの怠惰な者は取り残される。怠惰な者への矯正がなければ怠惰を肯定することとなり全体の進歩が遅れ、秩序は乱れ、民度も高まらない。
 子供に自主性は期待できないため、信賞必罰、叱責だけでは効果は少ない。直接的な強制による矯正が必要となる。矯正に最も効果的なのは体罰である。

 体罰には苦痛が伴う。苦痛は、それを克服させるための行動を起こさせる。苦痛を避けると進歩できないため、進歩に苦痛は不可欠。体罰を否定すれば進歩もしない。その結果、疎外感や劣等感によって体罰以上の不快が生まれ、社会に適合できなくなる。
 教育的進歩を遂げなければ社会人とはならない。体罰の否定は教育そのものの否定である。教員による体罰は学校教育法により禁止されているが、子供は体罰を含む教育を受ける権利があり、国家も教育の一部として体罰を与える義務がある。体罰は進歩を目的とした教育なのである。

 家庭での親による体罰は禁止されてはいないが、家庭体罰が認められ学校体罰は禁止されているという不均衡について科学的根拠は示されていない。

 近年、親による体罰を虐待とみなす事案が増加している。児童虐待も増えているが、児童虐待は体罰ではなく虐待である。
 体罰を虐待と混同する法制度は科学に反する。体罰と虐待は、進歩を目的とするか否かによって峻別される。間違った考え、人間力の劣化が原因である虐待は、進歩を目的としていない。

 「種内攻撃は善である」と科学的に証明されている。善悪は理性ではなく本能によって決定され、種内攻撃は秩序の形成と維持のための本能的行動として種族維持に必要なものなのである。体罰はこの種内攻撃にあたる。
 人間以外の動物は虐待を行わず、犯罪も犯さない。このような行為は、本能が劣化した人間の歪んだ理性によるものである。

  戦後の理性教育によって体罰が禁止され、個人主義、放任主義が蔓延した結果、親子関係は崩壊し、イジメや不登校、自殺などが起こった。教育全体が回復不能となり、社会秩序は崩壊寸前にある。

 悲観的な状況だが、平成21年の最高裁判所の判決に希望を見出すことができる。最高裁は、男児に蹴られた教員が、男児をつかみ壁に押しつけた行為について、「体罰には当たらない」と判断した。この行為は明らかに体罰である。最高裁判決は、体罰を肯定したか、限定的に認めたものである。
  教育を再生するためには、教育に科学性を回復することが必要である。まず学校教育法を改正するべきであり、体罰の方法や程度に関する法整備をしなければならない。

 体罰に対する否定的なイメージを払いのけるのは並大抵のことではないが、この洗脳からの解放が教育再生の第一歩である。

 といった理由で体罰の会は設立されたらしい。

October 28, 2012

ネグレクト

たいていの娯楽は、何かしら面白い点がある。何が面白いのかまったく理解出来ずとも、他の誰かにとっては愉快なところがあるわけで、でなければ世に出てこない。その面白さを見分けられないのは、了見の狭いせいであり、しかるべき観点からすれば大傑作、ということもあるのかもしれない。
とはいってもやはり、クソみたいな作品というのももちろんこの世にはあまた存在する。しかも大量に。不完全、奇形のまま作品を放り出した無能な作者の無思慮と無神経さを思えば気も滅入る。
愚鈍な作者を蔑むには少しばかり趣味と品性のよすぎる僕は、ちっとも楽しくないのである。



August 02, 2012

海底人

もともとどこかの星から飛来した宇宙人の末裔で、何らかの理由で海底にとどまり続けている。高圧の環境に適応していて、大気中や深度の浅いところでは生存できず、深海以外では宇宙服のような加圧服を必要とする。かつての「火星人」のような外観をしていて、つまりタコ。硬い骨格を持たない軟体動物。力は弱いが人類をはるかに凌駕する科学力を持っている。ごく稀にその製品が海岸に流れ着くことがあるが、科学力が違いすぎるため、普通の人類にはそれが何なのかまったく理解できなきほどである。そのため、長い間存在が知られることはなかった。
長年深海でひっそりと暮らしていたが、人類による海洋汚染、海中探査に危機感を抱き、地上侵攻を計画する。その際の兵力として利用するため、人類と海洋生物を掛け合わせたハイブリッド生物を作り出す。
ハイブリッド生物は、人類の知能や頑丈さ、地上での行動力と、イカやタコの長所(イカスミとか光ったりするのとかピコピコとか)を併せ持つ。人類の幼体(子供)を基体として、外科処置と遺伝子操作やらなんやらによって生産される。海底人と地球上の生物とでは、根本的な遺伝子構造とかそこらへんから違うことから、研究途上であり、現在のところはワンオフの実験体である。エビに含まれる何とかというタンパク質が麻薬として作用し、まあギャング的なあれ。強制的な洗脳教育を施され、自分たちを人類ではなく海洋生物の一種だと思い込んでいる。



February 16, 2012

AKG


AKGは三台目。K519DJを買った。

ZX700は存在ごと失念していた。ごめんソニー。

おもちゃに見えないヘッドフォンを掛けて出歩いては正気を疑われるため、安っぽいモデルを選んだわけだが、予想を上回るいい加減な作りが笑わせる。面白い。

音はまあ、予定通り。ロックンロール。

February 07, 2012

ラブコメ

ラブコメを書こうと思った。それっぽい設定とあらすじを三十分で作り上げ、それから三日、夜を徹して風呂にも入らず、執筆に没頭した。
ある程度の分量になったので、途中で読み返してみたのだが、何故だろう、どこにもラブとコメが見当らない。これはまだ導入部分なので仕方ない、物語が進めば自然とラブもコメも生まれてこよう。導入にしては些か冗長だが、後でばっさりカットしておけば問題はないだろう。そう考え、また書き進める事にした。
さらに二日経った今、ラブコメであるはずの物語には、ラブもコメもその兆しすら見えない。相変わらず風呂にも入っていない。目の前のディスプレイには、鬱屈した男女の、希望もなく、展望もなく、ただ退屈さに耐えるだけの、遣り場のない性衝動と不信と欺瞞に満ちた日常が延々描か……死にたい。

January 31, 2012

言いません

佐藤友哉は「自身の身体と戦っている」のだと作品の中で言う。どこからともなく湧き出る衝動を、それを閉じ込めようとする身体から発散させる戦いである。この戦いに勝つということは、衝動が現象を通じて他者に認識されるということだ。
この戦いの勝利とは、精神の解放なのかも知れない。それは恐らく、我々が安息の時を手に入れ、表現をやめる時であるだろう。しかし、我々がこの戦いに勝利することは決してない。生きる事自体、敗北の系譜なのである。戦いは一生続くだろう。
僕はちゃんと戦えているのか、僕はちゃんと戦えていたのか。佐藤の作品を見て思う。
彼は、彼の身体は、自在に語り尽くしているように見える。それでもまだ語るべき事があるという事実は、どれほど年齢を重ね知識を蓄えたとしても、表現への欲求に囚われる人の業の深さを感じさせる。知識も語るべき思想も持たない自分が、一丁前に声を荒げて語りたがろうとしている事実を恥ずかしくも感じる。それでも僕は、「文章を書く」という方法しか知らなかったのだ。
恐らく文章を書くという手段は、表現として最も手軽なものだ。しかしそれは、制度化され、教育によって流し込まれてきた記号としての言葉を、ただ惰性に従って書き連ねていたに過ぎない。僕はもっとストイックに戦う事が出来るのかも知れない。そしてそれは、自分が今まで本当に戦ってはいなかったという事でもある。

January 10, 2012

おしゃれゲーム

人は、そのままではおしゃれな存在ではない。社会と孤絶し単独で生きる場合を想定してみれば、そこに「おしゃれ」は存在しない。つまり「おしゃれ」とは、個人の感性(センス)などといったものではなく、生活の中で他者から獲得する社会的評価の一種である。
  1. 対象についての知識や理解がない場合でも、おしゃれかどうかを判断することはできる。このことから、おしゃれというものの基準は、その存在を明確に意識する必要はない。
  2. ある程度の個人差はあるものの、属する集団の中で支配的な価値基準である。
  3. 恒常的なものではなく、時とともに変化してゆく。
おしゃれという評価は、基準が明確に意識されていない状態においてのみ下される。基準が意識されている場合、おしゃれかどうかというよりも、単に基準に合致しているかどうかが問題とされるからだ。おしゃれだとされる対象と、その基準についての無知によって、おしゃれは肯定的評価として認められるのである。つまり「おしゃれ」というのは「よくわからないけど何か素敵な感じがする」ということを言い換えたものなのである。別の言い方をすれば、おしゃれという評価は、神秘性がその支柱となっているわけだ。
おしゃれに関する基準が定着するのには、「模倣」が多くの役割を担っている。
日常生活のさまざまな場面で、、自分には充分な情報がないとき、他の人々が何をしている見るのは合理的な戦略といえる。
おしゃれ基準がはっきりと了解されていない場合、個人は集団内の周りの人間を互いに模倣し合うことが最適な戦略となる。この相互の模倣が繰り返されることで、特定の基準がおしゃれなものとしてその集団内に定着するようになる。新たなおしゃれが集団の中で自然発生し、その大部分は埋もれたまま消えていくが、いくつかのおしゃれは相互的な模倣を通じ、全体の基準として採用される。

世間には多くの集団が存在し、それぞれ異なった基準によっておしゃれを評価し合っている。排他的な基準を持つことも多く、Aという集団ではおしゃれだと評価されることが、Bという集団ではまったく評価されないなどといった例もこと欠かない。
おしゃれは、それぞれが周りの人間からおしゃれという評価を多く得ることを目的とする、一種のゲームだと見なすことができる。このゲームを展開する上で不可欠なことは、第一に自分のおしゃれの基準と支配的な基準の両方を把握することだろう。
おしゃれという評価は相対的であり、その基準は広く知られていない方が有利である。おしゃれの基準や、おしゃれな物事に関する知識を占有することができれば、自分に有利となるよう、基準を誘導することさえ可能となる。憧れを維持するために、おしゃれというものを神秘的な様相を纏う性質のものと思わせた方が得策である。

基準の分裂や細分化は、趣味の多様化が原因というだけでなく、神秘性を高める役割を果たしている。基準を満たす条件が複雑さを増してきているということも指摘できるだろう。また、これらは個人の集団に対する帰属の意識を強め、集団自体の維持にも一役買っている。

ゲームに積極的に参加しないことを選択する人間も一定の割合で存在する。彼らは、おしゃれという評価を必要としない、あるいは、おしゃれにかけるためのコストを他の物事に振り向けていると思われるがちであるが、社会的生活を営んでいる以上、他とは別の基準に従っているものと考えた方が妥当である。


以上の考察から導き出されるおしゃれ戦略最適解とは以下のようになる。
  • 周りの人間にあまり知られていない対象を扱えばよい。ただし、それにはエートスが含まれているものと一般に思われていなければならない。あまりに知られていないと、おしゃれどころの話ではない。
  • 神秘的に振る舞うこと。神聖で侵しがたい雰囲気を漂わせていれば、それはそれでおしゃれに見えるかも知れない。
  • 頭に「おしゃれ」と付けなくてもおしゃれなイメージのあるものは、おしゃれを期待できる。おしゃれ喫茶店よりもただのカフエを選んだ方が無難だろう。また、「おしゃれ」と付けなくてもおしゃれなイメージのあるものは、むしろ「おしゃれ」と付いていない方がおしゃれである可能性が高い。おしゃれ喫茶<おしゃれカフエ<カフエである。
  • 無知な人間は、より多くの物事についておしゃれだと見なす。自分以外の人間を無知の状態に留めておくことが望ましい。周囲の人間が無知であればあるだけ、必要なおしゃれ力は小さく、得られる評価は最大となる。よって、おしゃれゲームを展開するには、自分たちのおしゃれ基準に関して無頓着な集団が適当である。
  • 集団内でのおしゃれの序列は、おしゃれ上級者による方向付けや外部からの影響、内部での変動が起きたとしても、全体としての分布は変化しない。
  • 万が一おしゃれ上級者の群れに潜り込んでしまった場合、傍から見ればださい集団なので一刻も早く抜け出すことを考えた方が得策である。
  • 要するに、おしゃれについていくら頭を悩ませたところで徒労に過ぎない。気楽に考えた方がいい。

January 02, 2012

ロックンロールとセンチメンタリティ

 聴くだけで特定の情動を喚起する音楽は凄い。でも、自分の感情をわざわざ引っ掻き回されるがままにしておくってのは、あまりいい気持ちがしない。

 ロックンロールを聴きながら歩いていたら、ギターの音でお正月特有の感傷的な気分が増幅された。感傷というのはなんともアイロニーだ。僕らは普通、気晴らしのために音楽を聴くわけだけど、気晴らしのために感傷的になるというのも、考えてみれば変な話ではある。

 前から思っていたんだけど、ロックンロールの本質はセンチメンタリティなんじゃないんだろうか。センチメンタルはロックンロールの一要素に過ぎないのではなく、むしろロックンロールがセンチメンタリティの表現態だったというわけだ。ロックンロールってセンチメンタルって意味なんじゃないかな。
 にこにこしたおじさんによるオールディーズからは、ロックンロールなんて感情は湧かない。でも、かつてそれが本物のロックンロールであったと知りながら、それが今ではすっかり失われているという状況は、センチメンタルという意味で激しくロックンロールだろう。
 
 我ながら、これはいいロックンロール解釈だと喜んでいたが、恣意的な矮小化だとしてロックンローラーに総括されそう。センチメンタルすべてがロックンロールだということにもなりかねない。いよいよ人との会話が成立しない。成立したとして、あまり嬉しくない。

December 28, 2011

今年観た映画を大いに語る

今年観たのは、デンデラとけいおん!の二作。僕としては多く感じるのだけれども、多いか少ないかと言ったら普通くらいだろう。両方とも、まさか観に行く事になるとは思ってなかった。
映画の面白さというものが判りかねるので、何を言っても、映画好きには笑われたり怒られたりするだろうが、こればかりは仕方ない。そんな事よりまず、映画館まで二度も足を運んだ事を褒めて貰いたい。

デンデラ
 口減らしの為に村から捨てられた老婆達が絶望に抗う為に作り上げたデンデラという共同体が、クマという圧倒的な暴力に蹂躙され崩壊してゆく中、望んだわけでもないのにデンデラに投げ込まれてしまった一人の老婆が、個としての意志を獲得する話。
 それまでは村民Aという役を何の疑問も抱かないまま生きてきたお婆ちゃんが、自らの生きる意味といったそんな感じのものを主体的に作り上げ引き受けるに至るあれやこれやを描いたみたいな、そんな文学的な映画だったはず。最後の爆発はいらないと思った。

けいおん!
 女子高生五人組がいちゃいちゃしながらロンドンを観光して、背伸びをせず自分らしくあることの大事さと、同じ時間を過ごしてきた友達の大切さに気付く話。いちゃいちゃ八割友情二割といった配分で、ちゃっちゃと話を進めて貰いたかったところだけれど、しかしそういう映画なんだと思えば、文句を付けるべきところでもないのかもしれない。
 頭を悩ます難解な展開もなく、シンプルでわかりやすいいい話である。何回も観る人のためでもあるんだろう。ユーザーフレンドリーである。

 中高年のおばさまばかりのデンデラ、若い男性中心のけいおん!という客層の対照的なところなども興味深かった。この二つの映画作品を比較してみるのも面白そうだが、忙しい上に面倒臭い。誰かやればいいとは思う。
来年はどんな心躍る映画を観られるのか、今から楽しみである。

November 18, 2011

BJM

あまりバンドのバイオグラフィなどには興味を持たないのだが、アルバム十五枚がiTunesライブラリに入っているというのに、いつどこのバンドであるかも知らないというのは、さすがにちょっと不健全なのではないかと僕は考えた。

 こんな時にインターネットは便利なもので、洋楽に詳しい知り合いを持たない僕ですら、家にいながら即座にあらゆるバンドの情報を得る事が出来るのであるが、ウィキペディアには記事がなかった。この国には文化というものが存在しないのだろうか。国内盤のライナーに書かれた解説もろくに読まないような僕に、世のロックファンの怠慢を裁く資格はない。そもそも、現代はグーグル先生他、翻訳のエキスパートがいたる所で暇とリソースを持て余しているわけで、日本語情報の不足を嘆く必要はどこにもない。

 ざっと見た感じ、六十年代サイケデリアだとかインディ・ロックだとかオルタナティヴだとか、そんな専門的で難しい用語を使われてもよく判らないのだけれども、どうやらそういう感じらしい。まあ、バンド名を見りゃ判る。

 一体何を調べようとしていたのか判らなくなってきた。簡単に言えば、アルバムを聴ければ他はどうだっていいわけだ、もっともな話。