August 29, 2015

八月二十九日

 女に振られて生きるのが嫌になった、もう誰も信頼できない、死ぬ(大意)、とのツイートを最後にMくんが消息を絶ち、暦の上では今日で一年。死んだという決定的な証拠は未だなく、今もどこかで平穏な生活を送っている可能性もないとは言えず、今後のカムバックの希望も絶無というわけではない。ただ、そう楽観できる根拠もまたなく、丸一年の沈黙からしてやはり死んだものと判断するのが妥当だろう。
 何件かの未遂という前例もある。自殺したといっても意外性がないばかりか当然の帰結のように思える。悲しいかというと別にそんなこともなく、どんな顔をすればいいかわからないの……くらいが実際のところ。自分には本当に感情がないのではないかと心配になってくる。
 本人の言葉を信じるならば、「失恋を苦にしての自殺」。あまりにアホ臭く、その上安っぽすぎるきらいはあるものの、動機はいかにも明快。もっともらしい理由ではある。日頃の言動からすると、Mくんと付き合うのは面倒臭そうだなあ(そりゃ振られるわ)、という感想しか湧かず、同情の余地もあまりない。ただまあ、彼のようにクヨクヨ考えるたちの人間にとっては、このくらいわかりやすい理屈があった方が死ぬには都合がよかったりするのだろう。
 僕とMくんの付き合いはわりと長かったので、自分も信頼できない人間に含まれていたのかと考えると少し気落ちするが、彼が死んだのにはやはり当日の僕の対応がまずかったせいもあるに違いなく、じゃあまあきっとそういうことなんだろう。やりとりを読み返すと僕の発言は本当に最悪そのもので、精神状態の不安定な人に対して言ってはいけないことばかり言っている。連絡が取れなくなった直後、逮捕されるのは嫌だなあとぼんやり思ったことを記憶している。起訴されたら確実に負ける。
 死にたいやつは死ね。僕はずっとそう考えてきたし、いろんなところでそう言明してもきた。生きるのが苦痛でしかないなら、死は合理的かつ現実的な選択肢であり得る。結局死を決断するのは本人の意志なのであり、他人の苦痛を味わうことは誰にもできない。自殺の原因を外部に求めようとするのは自殺した人間に対する侮辱にほかならず、僕が自分を責めるのは傲慢である。人には死ぬ自由がある。友人がいなくなるというのは確かに寂しいものであるけれど、Mくんがこれ以上苦しみを嘗めずに済むというのならば、それはむしろ喜ばしい話だと言わなくてはならない。整合性は失われていない。責任逃れといえばそうかも知れない。死後の世界を信じない僕は冥福を祈らない。

June 30, 2015

『絶歌』第一部

一読してわかるのは、書かれてないことが多すぎるってこと。犯行声明文など事件の核心とも思われるような部分もまるっと省略してたりするし、数え切れないほどあった前兆行動にもほとんど言及してない。えーと……猫殺しくらい?
こういったことは資料に当たればすぐにわかるわけで、本人としては隠しているつもりもないのかも知れないけれど、ともかくここには何かしらの意図があったと考えるべきだろう。
で、その意図は何かといろいろ考えてみたところ、書こうとした物語にそぐわないため割愛した、と見るのが妥当だという結論に達した。文中で物語を書きたかったと明言してるわけだし、特に無理な結論ではない。
現実は物語とは違い辻褄の合わないものなので、余さずありのまま書くとなるとどうしても不都合が出てくる。こういうのは触れずにおくに限る。ただ、自己分析の深化と解釈の変更ということで自分の供述に関する部分についてはがんがん改変できる。それは自分語りも多くなろうってなもんだ。

 これまで事件の原因については少年Aの生い立ちや環境要因、精神分析的解釈が色々と主張されたりしてきた。A自身もそういう方面のことを勉強した節が見受けられる。けど、A本人の意志というものについては長い間心の闇(ブラックボックス)として見過ごされてきたし、本人もあまり気にしていなかったように思われる。何せ人より共感能力が低い。反省は行為(殺した)とその結果(死んだ)という対象に限られていて、言ってしまえば表層的なものに留まっていたわけだ。でもそれだけではちょっとうまいこといかなくなってきたもんだから、もっと根本的に自分の罪というものを捉え直そうと決めた三十歳。思春期の黒歴史なんて、いやあ自分でもどうしてあんなことしたのかわかんないっすねー、というのが普通の感覚だし、Aにとっても多分そんな感じだったと思われる。そんなことを言ってるわけにもいかないものだから、適当な物語を作り上げてこれを解決しようとした。物語の文脈で一つ一つの行動の意味は書き換えられ、行き当たりばったりの犯罪は意志と実存を賭けた一大事業へと変貌する。偶然の暴力から必然の殺人へ。いわゆる運命化というやつだ。
こうして元少年Aは謎に包まれていた少年Aの犯行の動機というものを明るみの下へ晒け出すことに成功した。そんなものは元から存在していなかったわけだけど、犯した罪の責任を自分のものとして感じるためには些細なことである。

March 29, 2015

『クリスマス・テロル』の「テロル」

 2001年、佐藤友哉は『フリッカー式』で第二十一回メフィスト賞を受賞し推理小説作家としてデビューを果たす。翌年までに計三つの長編を発表するものの反響はゼロに等しく、売り上げは惨憺たる有様だった。続く新作を出せる見込みもなく作家として崖っぷちに立たされていた佐藤のもとへ最後のチャンスとして齎されたのが講談社ノベルス20周年記念企画「密室本」ーーいわゆる「密室」をテーマにした推理小説ーーの執筆依頼である。
 それまでの作風のままでは売れないということは佐藤自身も理解していた。かと言って売れ線の推理小説を書くには技術も足りなければアイデアも湧かない。そこで、もう後のない佐藤先生が考え付いたのが「テロル」という手法だった。
 ジャンル小説というものは作者と読者の間に一定の決まり事を要求するものであり、線引きは人それぞれであるにしても最低限のルールは保たれなければならない。当然ながらこの『クリスマス・テロル』という作品も推理小説としてのルールに忠実に則ったものだ。
 絶海の孤島で起こる密室からの消失事件、奇病に侵された少女の謎の死、二つの事件に翻弄されながらも美少女探偵・小林冬子は真相へと辿り着く——まさに推理小説のオーソドックスなパターンを踏襲する、それまでに刊行された三作品に較べれば著しくスペックの低いあらすじと言えよう。設定や展開に多少無理が見られ先行作品から引き写した部分も少なくないにせよ常識的な範囲に収まる普通の推理小説である。目立った点といえば、話の途中で作者が語り手の立場を逸脱して物語とは関係のない話を繰り広げること。それとエピローグに当たる最終章を慣例にない「あとがき」に充てているというところ。あとはなんだろ……あれ、これくらい?
 書き手が顔を覗かせる小説はそう珍しいものではない。古典推理小説でも読者への挑戦状とかやってたりするし(残念ながら未読ではあるが)。作家だって人間なので、あとがきを書きたくなることだってあるだろう。その辺りはあまりルール違反と責め立てるべきではないように思える。
 では『クリスマス・テロル』における「テロル」の核心とも言うべき点はどこにあるかというと、物語の流れを断ち切りエピローグを廃してまで作者・佐藤友哉が語ろうとしたその内容にある。
 簡単に言うと「あまりに自作が売れず作家を続けていられない」という泣き言だ。ただでさえ作者がしゃしゃって来て鬱陶しい小説だおいうのに、普通の推理小説を期待したーー何せ密室をテーマにした新本格推理小説という触れ込みだーー推理小説ファンにとっては興醒めも甚だしい。想像を絶する奇怪な事件、魅力溢れるキャラクター、秀逸なトリックに鮮やかな解決、あと世界観とか? 推理小説ファンが何を求めて誰も知らないような推理小説を読むのかはまあ人それぞれ色々事情があるのだろうが、少なくとも作者の愚痴を聞くためではないはずだ。話の途中で唐突に現れる作者が自分の無能を棚に上げ、小説が売れないのは怠慢な読者のせいだなどと駄々を捏ねるというのは私小説とかそういうのでやるものであって、推理小説とは話が違うのだ。いかに心の広い者といえどもこんなものを機嫌よく読了できるはずはない。実績のある御大ならまだしもひよっこ同然の新人作家に過ぎないのだ。単に下手糞なだけの作品であれば駄作の一言で無視するなり今後に期待するなりしとけば済む話だが、どう見たって推理小説というものを舐めきった態度でしかなく、言ってしまえば冒瀆である。出来不出来を云々する前に出版するレベルに達していない、読む価値はない、編集者は何をやっているのだ、金返せ! などと罵倒の声を上げたくなるのも人情というもので、実際一部で轟々と巻き起こった。
 しかし好評も悪評も評判は評判。それまで黙殺され続けていた作者としては、そうした反応を惹起することこそが目的であった。今で言う炎上マーケティングである。果たして密室本『クリスマス・テロル』は狙い通り話題を集め、(比較的)売れる。佐藤友哉にとっては初の重版出来となり、過去の作品にも再版がかかる。他の出版社からも執筆の依頼が来はじめる。「テロル」によって作家としての延命に成功したわけである。
 つまり、確かに「テロル」は作品のテーマと密接に関わり決して切り離せるものではないが、あくまで読者に手に取ってもらうためのきっかけに過ぎず、作品自体の面白さとはあまり関係がない。テーマというのはまあ書くことの孤独と不安、読む者と読まれる者の関係とかそういう感じだとして、それじゃあ『クリスマス・テロル』の面白さってのは一体何なのか、というのが本題として続くことになるわけなんだけれども長くなりそうだし面倒臭くなってきたから略するね。

March 22, 2015

佐藤友哉『ドグマ34』

 佐藤友哉作品に親しんでいる読者にとって、神戸児童連続殺傷事件は馴染み深いものだろう。酒鬼薔薇聖斗こと少年A逮捕のニュースを知ったミナミ君はショックで自殺しちゃうし、土江田さんは本人からして元少年A。一般的にも、あの頃物心のついていた人間なら誰しも印象深く記憶しているはずだ。学校の校門に子供の生首を置くというのは当時としては斬新奇抜なアイデアだったし、その声明文はある意味衝撃的なものだった。この事件を引き起こした犯人が十四才の少年だったと報道されたときには、世間の騒然ぶりときたらそれは大変なものじゃった……(以下回想が続く)。
 とはいえ、客観的に見れば実際に少年Aのやったことはしょうもなかった。英語駄目駄目だったし。それでも彼は自分の主張を社会に叩きつけ、何も考えずに生きている肉のカタマリみたいな人間たちを震撼させることには成功したわけで、まあ、人を刺したり猫を殺したのはマズかったが、そういう現実的な話ではなく、あくまでスタンスというか精神性的な面からのみ捉えるならば、あれはあれで立派な業績を上げたと言えなくもない。
 事件から十七年が過ぎ、少年Aも今では元少年Aどころか立派なアラサーだ。ユヤタン(笑)自身もとうに三十四才となり、マイホームでお父さんマシーンに従事するなど社会に順応しきっているらしい。作者と同い年であり、脂肪としがらみと面の皮を身に付けたこの作品の語り手も、現実を飼い馴らしながら日々を過ごしている。とは言っても、理解の及ばぬ事柄を既知の物語に押し込めわかったような口を利く大人たちの不誠実さに嫌悪を感じるくらいにはまだまだ青いままで、だから事件の舞台を訪れ少年Aの足どりを辿るツアーに参加するという行為は、僕らが嘲笑っていた醜い大人に自分自身がなったことで過去の自分から逆襲を受けるというのに等しい。さらに皮肉なことに、それについて恥じ入ることすらできないというのだ。だって大人だから。それはもう爆笑するしかない。大人になりきれないまま大人の役目を果たし続ける自分自身への違和感や困惑などというものを「大人らしさ」とは呼びにくいものではあるが、現実とはそういうものなのかも知れない、と大人の僕は考えたりもする。
 一方、途中から太田さんっぽい人と入れ替わって登場した謎の美少女は、当時の少年Aと同じく十四才。彼女にとって少年Aというのは等身大のキャラクターというやつで、自己の鏡像であると同時に一個のロールモデルでもある。軽薄で窮屈で偽善的な社会に敵意を向けるのは、今も昔も少年少女の仕事だ。僕にとっては遠く過ぎ去った季節であり、世界との戦いに子持ちのおっさんの出る幕はない。少女の憤懣に理解を示し、同情も共感もなく受け流すことだってできてしまうし、少年Aの行動の中に不器用さや鈍臭さを見て取り、笑い声を上げたり呆れ顔を浮かべたりもできる。まさしく大人の余裕ってやつだ。
 少女と別れ、ツアーを終えた家庭持ちの僕は、吐瀉物を撒き散らすという臆病なテロルで世界への敵意にかたを付け、殴りも殺しもすることなく嫁さんとチビちゃんの待つ家へと帰っていく。大人には世界と戦う前にしなければいけないことがたくさんある。老いてしまった僕にはそれを悲しんでいる暇もなければ必然もない。他に考えることは山ほどあるし、世界と戦う仕事は今この時にもどこかで誰かに引き継がれているはずだからだ。戦う少年少女がどこにいるのか、本当に存在しているのかは知らないが、少なくとも、地下鉄の中でナイフを手にして座る少女の姿を空想するくらいの自由は許されるだろう。世界は常に危機と隣り合わせだ。夜空を見るたびに思い出すがいい。

March 20, 2015

幸村と信繁

 トレードマークでもあるボーダーのカットソーに身を包んだ吉野さんは、乾杯を済ませてからというもの、幹事でもないのにテーブルの間をせわしなく立ち回り、空いた皿やグラスに視線を巡らせてはテキパキと注文をこなしている。その様子は普段の仕事中とまるで変わらず、苦労して隣の席を確保したというのに、これでは話しかけるどころではない。
 一段落ついた吉野さんが戻ってきたので、僕はさり気なく顔を背けた。じっと見つめていたことを悟られないためだ。椅子に座りこんだ吉野さんは、さすがに疲れが溜まっているようだ。どことなく気の抜けた表情を浮かべている。僕がグラスにビールを注ぐと、吉野さんはそっけなく「ありがと」と言った。
 僕は吉野さんと仕事以外ではほとんど会話をしたことがない。吉野さんには人を寄せ付けないところがあるというか、同じことだけれど、取っ付きにくいところがある。仕事ができて、気も利くし、人望だってあるのだが、どことなくよそよそしさを感じさせるのだ。吉野さんについて知っていることはあまりない。出身も、生い立ちも、住んでいる町も、好きな食べ物も、嫌いな芸能人も僕は知らなかった。ただ、一つだけ、吉野さんが歴史……特に戦国時代を趣味にしているというのだけは僕も耳にしていた。というのも、そのことが部内では有名な噂だったからだ。休みごとに全国を飛び回り史跡を訪れているだとか、大名と国の名前をすべて暗記しているだとか、自宅は関連グッズで足の踏み場もないだとか、エトセトラエトセトラ。だから今日の僕は話題に迷うということはほとんどなかった。
「吉野さんって、歴史好きってほんとですか?」
「うん……なんで?」
 とはいえ、いささか唐突だったかもしれない。いきなりこんな話を切り出されては、怪訝な顔をするのも当然といえば当然。会話ではホップとステップが大切だ。でも、このくらいなら予想もしていたし、口に出してしまった以上、今さら引き返せもしない。
「実は僕も武将とか好きで」
「え、誰?」
 手にしていたグラスをテーブルに置き、吉野さんは僕の方に身を乗り出すように向き直った。警戒心はあっという間に解けたらしい。僕はほっとする。
「真田幸村とか」
 真田幸村。猿飛佐助を始めとする真田十勇士を従え、奇抜な戦法を駆使して徳川方を翻弄、苦戦させながら、大坂夏の陣で壮絶な戦死を遂げた名将である。織田信長や徳川家康ほど有名ではないが、マニアしか知らないというほど無名ではない。話の導入には最適な選択だと、僕はそう考えていた。
「ノブシゲねえ……」
 吉野さんはそう言ってせせら笑い、一人ふんふんと頷いた。 僕には意味がわからない。
「の、のぶしげ?」
 それが武将の名前だろうというくらいの見当はつくが、真田幸村の話をしようとしているところに、どうしてそんな名前が出てくるのか。何か間違ったことを言ってしまったのだろうか。 「真田幸村の……」と言いかけたところで吉野さんは箸を取り上げ、「まだまだだねえ」と独りごちる。関心はすでに料理の方へと移ってしまったようだ。  何が起きたのかさっぱり理解できなかったが、思惑が外れてしまったということだけは確かだった。
「あ、今度、本貸してあげる」
 付け焼き刃は見透かされているのかもしれない。下心もバレているのだろう。なんだか機嫌がよさそうなのは、きっと酔っているからに違いない。
「ほんとですか?」
 でも僕はその申し出に即座に飛びついてしまう。満面の笑顔を浮かべた吉野さんが直視できず、僕は思わず目を逸らす。会話が途切れ、間抜けな返事しかできない自分が厭になる。
 明日になっても、僕と吉野さんの関係は、これまで通り何一つ変わることなく続いていくのだろう。ただの職場の先輩と後輩だ。この会話だって、たまたま席が隣り合ったから生まれたってだけで、本は借りても読まないまま返すに違いない。戦国武将なんてどうでもいいのだ。
 だけど、僕はせっかくの機会を棒に振りたくなかった。吉野さんに近づきたかった。踏み込みたかった。何かを言わなければいけない気がしたが、何を言うべきかはわからなかった。とにかくそんな気になっていた。気ばかりが焦っていたのだ。落ち着かない。目が泳ぐ。考えがまとまらないうちに口だけが勝手に動いた。
「歴史が好きな人、美人が多いってほんとですね」
 言い終えた瞬間、周囲の喧騒が浮き上がる。僕ははやくも後悔した。吉野さんが今どんな顔をしているか確かめるには、僕には少し勇気が足りない。
「ちょっとやだ、やめてよー」
 僕の内面を知ってか知らずか、吉野さんは急に笑いだした。それは、僕の言葉をすべてなかったことにするという宣告だった。
「わたし、でもあれだよ……中学時代とか、さ、西郷隆盛? 西郷隆盛に似てるって言われちゃっててさ……ていうか眉毛とかなんかドーンってしてるし、ていうか男じゃん?」
 それは完全に僕への拒絶の意思を示していた。吉野さんはひたすら早口でまくし立てるばかりで、もう目を合わせようともしてくれない。ただ隣に座っているだけの僕は、彼女の繰り出す自嘲めいた言葉を、黙って聞き続けることしかできない。
(了)

March 18, 2015

書評『1000年後に生き残るための青春小説講座』

(あらすじ)
 2010年から翌11年にかけて、雑誌「群像」の「一世を風靡したが今は消えてしまった戦後文学作家の小説を読み直し、ディスカッションしてその価値を再発見する」というに戦後文学を読む」なる企画により、究極の小説を求めて主人公が東京中を右往左往する『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を獲った新進気鋭の若手作家佐藤友哉が、編集部から渡された作品を読みながら、三十路になったことや結婚したこと、サリンジャーの死や地震や原発問題、ネットとの付き合い方などについて、どうしようもない文章を書き飛ばし、1000年経っても読まれ続ける青春小説を書く方法を読者に伝授する話。

 佐藤友哉によれば、戦後文学は今読んでも充分に面白い。けれど、今ではもう書店には並んでないし、ほとんど話題にもならないし、忘れ去られてしまっている。なぜ当時の文学青年は歴史に残るような小説を書けなかったのか。それは、ポップじゃなかったから。いくら美意識に満ちた名文を書こうと、時代を鋭く諷刺しようと、優れた思想が内在しようと、皆が本を手にしたがるような餌がない、最後まで飽きずに読ませようとするサービス精神がない、女子供が愉しめるような大衆性がない、誰もが理解出来るような一般性がない、そんな作品は伝達力に欠けている。世界は保守的なのである。読者に歩み寄らないと、現代の(そして未来の)少年少女たちは「お前の物語なんて読んでやるもんかよ!」とそっぽを向いてしまうか、十一ページも読んだところで挫折するのが関の山というもの。他人の視線や評価を意識し、需要のある物語を書き上げ、自分の価値を世界へと注ぐべきだろう。数字は正義。それこそがポップということ。叩かれたり傷ついたり無視されたりするのが嫌だからって文学の穴蔵から出ようとしないなんてのは負け組の云い訳に過ぎず、文学青年は時の流れを乗りこえることはできない。弱者は自覚して死なねばならないのだ。

 『クリスマス・テロル』から十年あまり、技巧を身につけ、マイホームも買い、面の皮は厚くなった。だけど、佐藤友哉の言ってることはその頃と大して変わらない。同じところをぐるぐる回っているだけ。一般的な小説を書こうとして、書いたつもりがそうでもなくて、書けないとわかって、それでも書き続けながら生きている僕。とかそういうのもういいんで、ちゃちゃっと鏡家新作お願いしますよ佐藤先生。

February 17, 2015

 いったい我々は「少女」という言葉で何を意味するつもりなのか、この問いに対して、我々は今日何らかの答えを持っているのであろうか。断じて否。だからこそ、少女への問いを改めて設定することが肝要なのだ。

 たとえ現代が「セカイ系」を再び肯定することを進歩だと思っているにせよ、少女問題は今日では忘却されている。にもかかわらず人は、「少女〔ウーシア〕ヲメグル巨人ノ戦イ」を新しく焚き付ける努力はもうしなくてよいと看做している。そして、かつては思考の最高の努力のうちで、現象から戦い取られたものが、ずっと以前から陳腐なものになってしまっている。そればかりではない。少女を学的に解釈するために置かれたオタク的発端を地盤として、一つのドグマが作り上げられてしまった。このドグマは、存在の意味への問いを余計なものだと宣言するばかりではなく、その上、この問いを揺るがせにしてもよいと是認している。
 少女を問い尋ねる必要はないと絶えず新たにその不必要を植え付け育て上げる諸先入見を、この探究の初めに論究することはできない。それらの諸先入見はその根を古代存在論のうちに持っているのである。この古代存在論を十分に学的に解釈することができるのは、少女への問いが予め明瞭にされ、そのことが手引きとなる場合に限られる。そのため、ここでは諸先入見についての討議を、少女の意味への問いを繰り返す必然性が洞察される程度に留めたいと思う。それらの諸先入見には以下の三つがある。
  1. 「少女」は「最も普遍的な概念」である。(この言い方は、この最も普遍的な概念が最も明瞭な概念であって、それ以上の論究をまったく必要としないということを意味することはできない。「少女」という概念はむしろ最も曖昧な概念なのである。)
  2. 「少女」という概念は定義不可能である。(決してそうではない。結論することができるのは、「少女」は存在者といったようなものではないということだけである。)
  3. 「少女」は自明の概念である。(こうした平均的な了解しやすさは了解しにくさを論証するだけである。)
だが、以上の諸先入見を考量すると同時に判然となったのは、少女を問い尋ねる問いに対して答えが欠けているばかりではなく、それどころかこの問い自身が曖昧で方向を失っているということである。だから、少女問題を繰り返すことは、まず第一にその問題設定を十分に仕上げることに他ならない。

February 16, 2015

永遠を目掛けるポスト心中主義としてのセカイ系

 大人に囲われた少女と無力な少年の恋物語として、セカイ系は明らかに近松以来の心中ものの系譜に属する。少年が子供であるがために彼女とともに戦うことを禁じられているということが何を意味しているかについて、ことさら説明する必要もないと思う。

 心中ものにおいて恋人たちに死を決意させるのは、現世への絶望と同程度以上に来世への希望である。永遠の愛を実現する手段として心中は人気を集め、実際昭和あたりまでは機能している。三原山とか。しかし、近代化が進むに従い心中はおとぎ話へと追いやられ、80年代にはほぼ廃れた。近代主義的死生観から刹那的享楽という一つの方向が台頭し、永遠の愛といった主題はいったん閑却される。この刹那主義はやがて退潮するものの、心中が再びその地位を回復することはなかった。その後、再び永遠の愛が主題化され始めるようになった際に、心中ものの様式を継承しつつ心中の不可能性という地点に立脚して永遠の愛を目指そうと誕生したのがセカイ系である。

 セカイ系では、少女が世界(と少年)を守るため自ら命を投げ出し、少年は彼女の思い出を抱えながら生き続ける。残された者が亡き恋人の思い出を支えに生きるという構図はセカチューや恋空などの病死ものにも見られる。病死ものでは死は不運な事故に過ぎないが、セカイ系では、その死は主体的に選び取られたものである。
 少女は、少年とともに世界が滅び去るのを見届けることを拒否する。なぜなら、それは消極的な心中に過ぎないからであり、永遠を手に入れるためには心中はすでに無効となっている方法であるためだ。ここに選択がある。少女の守ろうとする世界は、たとえそれが失敗に終わったとしても、彼女の愛の刻み込まれたものとなる。少年は残りの人生をこの世界の中で生き続けることになるが、彼の死後においても二人の愛の記念碑として文明や人類を超え世界は存続するだろう。ゆえに少女は戦いを引き受ける。世界とともに戦い続けることを決意する。彼女にとってこの世界こそすなわち愛だからだ。永遠を目掛けるポスト心中主義としてのセカイ系である。

February 07, 2015

セカイ系とは

 1990年代後半から00年代にかけて作られた、オタクに人気の高い学園ラブコメや巨大ロボットSFといったジャンルを混ぜ合わせ、そこへ美少女やロボット、探偵などのオタクに好まれる要素を多く登場させることで、特に世界や社会を具体的に想像できないでいる自意識過剰な若いオタク男性をターゲットに据えた作品群を指す。
 ジャンル自体の虚構性を批評的に描くという自己言及的な構造と、そのゲーム的な方法論が特徴である。

 典型的なセカイ系作品では、強大な力を持ち世界の命運を握る少女と、無力で彼女を見守るだけの少年、という二人の主人公が配置され、この二人を中心とした小さな関係性が、社会的、歴史的な経緯を捨象したまま世界の危機やこの世の終わりに直結するといった構図を持ち、戦闘に参加することのない少年が、戦う宿命を背負った少女から愛され、最終的に少女を失う、という展開となっている。
 主人公らによる一人語りは、権力への意志、成長の拒絶という二つの観念に根ざしており、また、作品内で実社会に関する描写が意図的に省かれることによって、「世界」という言葉で言い表される彼ら自身の世界認識の仕方が示されている。

 セカイ系作品の乱立、公共的社会の描写の不足あるいは欠如への非難や、無条件的な承認に埋没し思考停止に陥った主人公の無責任さと自己中心主義を問題視する意見もあり、ジャンルとしてのセカイ系は2010年代に入る頃にはほぼ廃れたが、とはいえ「自意識と世界の果て」というモチーフは文学の基本テーマの一つであり、その影響は形を変えつつ後続の作品へと受け継げられている。

February 04, 2015

『存在と時間』目次 (抜粋)

序論 存在の意味への問いの開陳


第一章 存在問題の必然性、構造、および優位

第二章 存在問題を仕上げるときの二重の課題 根本的探究の方法とその構図

  • 根本的探究の現象学的方法
A 現象という概念
B ロゴスという概念
C 現象学の予備概念

第一部


第一篇 現存在の予備的な基礎的分析

第一章 現存在の予備的分析の課題と開陳

第二章 現存在の根本機構としての世界内存在一般

第三章 世界の世界性

  • 世界一般の世界性の理念
A 環境世界性と世界性一般との分析
  • 環境世界の内で出会われる存在者の存在
  • 世界内部的存在者に即しておのれを告げるところの、環境世界適合性
  • 指示と記号
  • 適所性と有意義性 世界の世界性
B 世界性の分析をデカルトでみられる世界の学的解釈に対して対照させること
  • 拡ガリノアルモノとしての「世界」の規定
  • 「世界」の存在論的規定の諸基礎
  • 「世界」のデカルト的存在論についての解釈学的討議
C 環境世界の環境性と現存在の空間性
  • 世界内部的な道具的存在者の空間性
  • 世界内存在の空間性
  • 現存在の空間性と空間

第四章 共存在および自己存在としての世界内存在 「世人」

  • 現存在の誰かに対する実存論的な問いのために置かれた発端
  • 他者たちの共現存在と日常的な共存在
  • 日常的な自己存在と世人

第五章 内存在そのもの

A 現の実存論的構成
B 現の日常的存在と現存在の頽落
  • 空談
  • 好奇心
  • 曖昧性
  • 頽落と被投性
  • 現存在の際立った開示性としての不安という根本情状性
  • 気遣いとしての現存在の存在
  • 現存在の前存在論的自己解釈にもとづく、気遣いとしての現存在の実存論的な学的解釈の確証
  • 現存在、世界性、および実在性
a 外的世界」の存在と証明可能性との問題との実在性
b 存在論的問題としての実在性
c 実在性と気遣い
  • 現存在、開示性、真理
a 伝統的真理概念とその存在論的な諸基礎
b 真理の根源的現象と伝統的真理概念の派生性
c 真理の存在様式と真理前提

第二篇 現存在と時間性

  • 現存在の予備的な基礎的分析の成果と、この存在者の根源的な実存論的な学的解釈の課題

第一章 現存在の可能的な全体存在と、死へとかかわる存在

  • 現存在にふさわしい全体存在を存在論的に捕捉し規定することの外見上の不可能性
  • 他者たちの死の経験不可能性と全体的な現存在の捕捉可能性
  • 未済、終わり、および全体性
  • 死の実存論的分析を、この現象について可能な他の学的諸解釈に対して限定すること
  • 死の実存論的存在論的構造の下図
  • 死へとかかわる存在と現存在の日常性
  • 終わりへとかかわる日常的な存在と、死の完全な実存論的概念
  • 死へとかかわる本来的な存在の実存論的企投

第二章 本来的な存在しうることの現存在にふさわしい証しと、決意性

  • 本来的な実存的可能性の証しの問題
  • 良心の実存論的・存在論的な諸基礎
  • 良心の呼び声
  • 気遣いの呼び声としての良心
  • 呼びかけの了解と責め
  • 良心の実存論的な学的解釈と通俗的な良心解釈
  • 良心において証しを与えられた本来的な存在しうることの実存論的構造