December 22, 2015

『クリスマス・テロル』の文体論

 重要なのはスピードだ。BPMやMPHなどといった明確かつ客観的な単位は存在しないにしても、速度の概念は文章にも通用する。
 改行ばかりで読み終えるまでに掛かる時間が短いとか、改行がほとんどなかったり漢字が多いせいで見た感じ密度が高いとかそういった物理的な意味合いは含まない。また、ただ話の展開が速いというだけのことであれば、それは単調さと直結し、単調さとはすなわち停滞の徴候だ。文章の速さとは文体の速さである。
 説明を省き、描写を間引き、プロットを切り詰め、テクストを圧縮し、読者に対し不親切なことは認めざるを得ないにしても、『クリスマス・テロル』は限界まで飛ばす。速度を上げた結果理解できるのは書いた本人だけ、なんてことになれば読めたものではないし、粗筋をなぞるだけの無味乾燥な文章の羅列ともなれば目も当てられないが、そこは匙加減。独り善がりや脱線と思える部分もままあるとして、それでも作者は手綱を失ってはいない。地の文全体に撒き散らされる口語表現、比喩の用をなしていない比喩、微妙に意味のずれた語句、不自然に介入する作者の声。一見余計なように見えるこれらの要素により可読性が若干損なわれてはいるが、要するに優先順位の問題だ。もともと文章の中に異物感を内在させる点こそが佐藤文体の躓きの石であり、同時に武器でもある。その特徴を一つ一つ挙げていけば読者を観察者ないし傍観者の立場へと追いやる欠点でしかないのだが、組み合わさることで奇跡的とも言える効果を挙げている。不可避的に発生する異物感は登場人物への共感、物語への没入を阻害すると同時に生じる抑揚から導き出されるグルーヴィーかつハイテンションなジェットコースターリーディング。
 お世辞にも佐藤友哉を美文家とは呼べないし、呼ぶ必然性もない。どちらかと言えば悪文家の範疇に入るだろう。けれどもこの試論で追求されるのは文章の美しさではないし、ましてや読みやすさや入り込みやすさなどといったものでもない。焦点はその文体に絞られ、また悪文にも文体は存在する。文体自体の持ち得る速さ。その点において一つの限界に最も近づいた小説、それが『クリスマス・テロル』である。

December 11, 2015

伊藤計劃インスパイア系として読む『ダンガンロンパ十神』

佐藤友哉『ダンガンロンパ十神』
  本テキストを書くにあたり、次の筆記システムを使用した。
  k2k-system ver2.3
 混物。偽物。紛物。写本の写本がはびこる世界で、よく耐えていると思う。システムの堅牢さと生真面目さには舌を巻くしかない。
 そんなわけなので、僕の仕事といえば、ちょっとした添削くらいだ。身のほどはわきまえている。古英語詩を台無しにした筆者僧どもの仲間入りをする気はない。
 はじまり(オリジン)の魂に幸あれ。
 あるとすればの話だが。


伊藤計劃『From the Nothing, With Love』
 例えるなら私は書物だ。いまこうして生起しつつあるテクストだ。(略)だから、これから書かれる文章がいささか皮肉めいていて、あるいは感傷的に見えたとしても、そこにはいかなる内面もない。そう解釈できる、純粋な出力があるだけだ。
 そのうえでこう言わせて欲しい。
 私の魂に安らぎあれ、と。


 『ダンガンロンパ十神』での「人類史上最大最悪の絶望的事件」は『ハーモニー』、『虐殺器官』における〈大災禍(ザ・メイルストロム)〉と重ね合わされている。それも恐らく意識的に。「虐殺言語」が「絶望小説」に置き換わっただけで、これもう『虐殺器官』の二次創作でいいんじゃないかってレベル。『ベッドサイド・マーダーケース』の前例もあるし、佐藤友哉自身伊藤計劃への信奉を公言してるし。

 さすがに文中にタグは使われていないが、オン/オフラインの参照情報を提示する「ボルヘス」は、ETMLの dictionary タグと同じ役割を果たしている。名称はもちろん『ハーモニー』の「全書籍図書館(ボルヘス)」から。目を疑ったのはアメリカ開拓時代の奴隷を例にとった「噛み噛み」部分。多少手を加えてはいるものの、そのまま『ハーモニー』の引き写し。いかに切り貼り作家の定評を持つとはいえ少なくともこういう書き方はしないはずだったと思うのだけど。
 繰り返して現れる明らさまな模倣には、そこに何らかの意図が含まれていると考えるべきだろう。したがって『ダンガンロンパ十神』を解読するには伊藤計劃の諸作を前提する必要があるように感じられる。

 執筆に用いられた k2k-system は実在するものではないらしく、どうやら架空のシステムのようだ(ググってみたところ、EメールとFAXをやり取りするサービスやニュートリノが質量を持つことを証明した実験などがヒットした。まあ、そういう方面から深読みを進めるのも面白そうなんだけど、無闇と深読みの泥沼に嵌まるのは現時点では見合わせておきたい)。とりあえず、前書きの「僕」と著者である佐藤友哉は区別されるべきだということは確実。ただそうすると終盤に挿入される「作者の言葉」が宙ぶらりんになってしまうという難点もあるのだが、単にこれを佐藤友哉の悪ふざけにすべてを帰すのはいかがなものか。本を開いたところからフィクションは始まっている。「僕」が佐藤友哉ではなく「僕」であること。「ここではとんでもない詐術が働いている」のだ。
 前書きが校正者に過ぎない「僕」によるものであるということは、『十神』に先行する「原典」の存在が予想される。恐らく「はじまり(オリジン)」という言葉はその原典の「著者」を指すものだろう。これは物語の語り手『青インク』だと考えていいと思う。ていうか他に適当な人物が見当たらない。
 『青インク』=十神忍。十神白夜の所有物であり、その存在理由は十神白夜の伝記の執筆。まさしく原典の著者としてうってつけの人物像。だが『ダンガンロンパ十神』はどう読んでも十神白夜の伝記ではない。しかも『ダンガンロンパ十神』は、一般的な一人称小説のように摩訶不思議な作用で語り手の心理を文章として紙面に定着させたものではなく、一種の写本なのだ。
 じゃあ、はじまりって一体誰なのよ。原典って一体何なのよ。

 伊藤計劃の『ハーモニー』は霧慧トァンの一人称で語られている。しかしこの物語が記述された時代、人類は意識を消失しシステムの中に溶け合っている状態にある。この時点ではトァンという個人はもはや存在しない。つまり、『ハーモニー』はトァン個人の記憶ではなく、社会システムの語るトァン(という個体)の記録となっている。したがって『ハーモニー』は正確にはトァンによって書かれたものではなく、せいぜい「かつて霧慧トァンであった個体」によって書かれたものだとしか言えないのである。
 短編『From the Nothing, With Love』の語り手は、「原典」と呼ばれる人格を脳に上書きされた人間だ。彼は自己を「写本」と規定し、原典の記憶、思考、振る舞いを継続することによってその存在を維持している。ここで「原典」に振られたルビは「オリジナル」。ちなみに彼は女王陛下の所有物であり、「所有物」には「プロパティ」のルビが付く。
 『十神』がその構造を上記二作品に負っているならば、語り手と書き手の同一性を自明視することはできない。『ダンガンロンパ十神』の著者は十神忍(オリジナル)ではなく「十神忍の記憶を引き継いだ何か」ということになるだろう。
 あるとすればだが。

 というわけで、前書きから引き出される疑問は以下のようなものになる。
 『ダンガンロンパ十神』に原典は存在するのか。
 十神忍にオリジナルは存在するのか。
 青インクに魂は存在するのか。
 かつて『エナメル』で「魂なんて存在しないのに」と言い放ったのは鏡稜子、オリジナルかどうかを問われ「どっちでも良いじゃん」と言い切ったのは『フリッカー式』の鏡佐奈である。

December 05, 2015

『ダンガンロンパ十神(上)』のレビュー

 レビューで最も大切なのは「フェアであること」。作品に対してであれ、作者に対してであれ、自分自身に対してであれ。当然ながら人間と云うものは実に様々な価値観でもって物事を判断する。基準点を喪ってしまっている世界において公平に語ると云う事は私的に語る事でもある。いや、佐藤友哉の裏切りなんてものは、そりゃしょっちゅうなんだけど。

 雑なキャラクター、雑なセッティング、雑なプロット、雑なナラティブ(ついでに云っておくと、「ですます調」で語る佐藤友哉が僕はあまり好きではない)。そうした印象は本作を読んでいる間、終始付き纏っていた。弁解のように聞こえるかも知れないが、個性溢れる登場人物達が破茶滅茶な状況の中で大活躍を繰り広げ壮絶な展開と手に汗握るアクションに満ちた冒険譚は、たとえ雑な作りであったとしてもただそれだけで充分に面白い。実際に本作『ダンガンロンパ十神(上)』は面白く読めた。良く出来たエンタメ小説だ。
 だけどね。

「ネタとしては使い古されているけど、それに代わるもんがないから仕方なく使うとして……村上春樹の登場人物風に云うとすれば、やれやれって感じだね。あっ、ジョジョでも可か」
 幾ら禁じ手を平然と踏み破るのがユヤタンクオリティだからと云って、超えてはいけない一線は(曲りなりにせよ)ある。これは『ダンガンロンパ』スピンオフなのであって、云ってみれば他所様の作品。そこはちゃんと区別しとこうよ、同人誌じゃないんだからさ。
「私は『絶望高校級のブラコン』鏡佐奈」
 ……って何だよ。親が聞いたら泣くぞ。
「……私は『絶望高校級の二重人格』鏡那緒美」
 お前まだ中学生だろうが。
 
 もやもやした頭を抱えながら(上巻了)の文字を見て本を閉じる事になる。ところが時間が経つに従い、いやこれは傑作だとしか云えなくなってくるのだ。

 この『ダンガンロンパ十神(上)』は、『ダンガンロンパ』シリーズのスピンオフ作品でありノベライズ。当たり前の事ながら想定される読者には「小説の愛好家」「佐藤友哉の読者」だけではなく「『ダンガンロンパ』のファン」も含まれる。主な読者層はそちらの方なのかも知れないね。
 ゲームをやっていないので確言は出来ないけれど、致命的な破綻も崩壊はなく「ノベライズ」の観点からすれば成功している部類に入るだろう。勿論、一般性にはちょっと程遠い世界ではあるにしても読者を喰いつかせるための餌、サービス精神、大衆性は充分に持ち合わせている。ざっと検索してみたところ「思ってたキャラと違う」とか「文章が稚拙」とか「オリキャラが不快」とか「作者が地の文で愚痴ってる」等々、小説と云う創作ジャンル(しかも二次創作)にあっては不可避な非難(難癖とも云う)以上の否定的意見は見受けられなかった。肝心の十神ファンの反応も概ね好ましいもののように思える。スペックは絶望的に低いが、そんなものに価値を見出すのは依頼された原稿を要求に応じ着実に書き上げるプロの仕事を理解出来ない思い上がった素人だけだ。少なくとも及第点には達していると見て良い。

 ところがこれを佐藤友哉読者の観点から読むとなると、本作はもう本当にやりたい放題やっている様にしか思えない。既存の作品やサブカルチャー(笑)からの借用、流用、転用、引用は、最早佐藤友哉の十八番、御家芸、代名詞。はいはい想定内想定内。メタ発言はオタクとして当然の嗜みだよね。〈鏡家サーガ〉時代からの読者は、懐かしさを感じるか馬鹿にされたと感じるか、或いはその両方を感じて狼狽えるだろう(僕はそうだった)。過去にやったネタの再利用、キャラクターや文章自体の切り貼りは若かりし頃の自分と読者を嗤う恥ずかしい大人に成り下がったオッサン佐藤友哉の姿を予期させ、醜い姿を晒しながら往年のヒット曲を演奏する雑な再結成バンドと同じ嘘臭さを感じさせる(まあ、それはそれで盛り上がるんだけど)。佐藤友哉の性格の悪さを考えると嘘臭さそれ自体が嫌がらせを目的に書かれていると判断せざるを得ないし、こう云うのが好きなんでしょ? とニタニタ笑う顔も透けて見える。「鏡家を、青春の書を汚すな!」と大切にしているものを無造作にポンと出されてセンチメンタルな反応を返すのも当然と云えば当然だ。読者サービスと嫌がらせの一粒で二度美味しい技法である。おまけにユヤタン芸の再演は佐藤友哉(とその元ネタ)を知らない層には寧ろ「ロンパ的」な要素として好意的に受け止められているようで、ゲームの制作者がユヤタン(佐藤友哉)の愛読者を自認している事を考え合わせると佐藤読者としてはこの相互循環作用を俯瞰的に眺める事が出来て大変味わい深いものがある。

 さて、最後まで読み終えてみると、こうした切り貼りが単なるアクセントやネタに留まらず冒頭から提示されていた作品のメタ構造と密接に関わり合っている事に気付く。目的の為には〈鏡家サーガ〉すらも道具として使い捨てる姿勢に古くからの読者としては複雑な思いがするけれど、その分効果的だと云う事は否定出来ない。終盤部分に挿入された『クリスマス・テロル』を再現するかのような作者の独白はネタとして大分寒いが作品に込められた佐藤友哉の本気ってものが窺い知れなくもない。
 作品全体を見渡して得られるメタフィクション的構造は疑い深い読者の見当識を失わせ、目の前に広がる作品世界の位相を錯誤させる。羅列される架空の作家に夢野久作の名が混じり込んでいるのは恐らく意図的なものだろう。自分は『ダンガンロンパ』を読んでいるのか〈鏡家サーガ〉を読んでいるのか、それとも全く別の世界であるのか……。こうした眩惑的な仕掛けが、馬鹿馬鹿しい程に単純で明快な物語と両立しているのだ。凄い! 佐藤先生天才!

 もう一つ。この作品にはキャラクターだけでなく、寧ろそれ以上にこれまで佐藤友哉が小説に書き続けてきたテーマが引き継がれている。暗黒青春小説の系譜に属する事は云うまでもないが、書くという行為への執着、無自覚な悪意、終わりなき青春の終わり、妹、牛、エトセトラエトセトラ。キャリア総決算と云った趣で、さすがに全部乗せって無茶にも程があるだろうと思わずにはいられないのだが不思議とこの割と短めの分量の中に収まっており、そればかりかちゃんと作品として成立している。それも他作品のノベライズでだ。小説家としての力量の為せる業である。凄い! 佐藤先生中堅作家!


 結論。断言してしまうが、『ダンガンロンパ十神(上)』は現時点に於ける佐藤友哉の最高到達点である。「何も考えていないように見せかけておいて実は腹に一物あると勘繰らせるような行動をとりながら、実際はやっぱり何も考えちゃいない」と云う可能性も捨てきれないのだが、そうした場合にもやはり佐藤先生の天才ぶりが証明されるだけの結果となるので特に問題ないと思う。世界との戦いは続く。物語は残る。

December 01, 2015

ダンガンロンパ十神(上)がとても笑えるという話

 佐藤友哉作品では、打ちひしがれた野心と挫折した魂の持ち主が主人公兼語り手として据えられる場合が多くあります。読者は、主人公と作者たる佐藤友哉とを半ば同一視し、まあつまり私小説的に読まれる傾向が強いわけなんですが、今回もまたそんな語り手の登場です。

 才能を信じ、才能に憧れながら、才能に恵まれず、そんなこんなで才能コンプレックスに苛まれ、今では田舎でモグラのように引き篭もり、希望から目を背ける生活を送っている「僕」。いつものというかいかにもな「オレたちのユヤタン」って感じがプンプンします。
 例によって謎の美少女との邂逅を経て、不可解な事件に巻き込まれる「僕」……という、お定まりのこの展開ほど白けさせるものはありませんね、誰か改善してくれないと。
 二人の前に立ち塞がり、『世界密室化計画』の名の下に連続殺人鬼や古今のミステリ小説を模倣しながらじゃんじゃん人を殺して回っているのが、希望ヶ峰学園付属中学校ミステリー研究会。そうです、これはダンガンロンパスピンオフだったのです。
 若さゆえの暴走か、密室殺人に悦びを覚える変態どもだけど、「僕」からしてみると、そうしたアピールに余念のないところが才能ゼロ人間の才能ゼロたる所以なのだそうです。人の才能をああだこうだと論評する才能ゼロ人間の彼らは、佐藤友哉自身の読者層に近しいものを感じざるを得ません。だって、作者を悪し様に罵るのが好きですからね、佐藤友哉ファンという人達は。同じく才能ゼロ人間である「僕」は、こうした豚の悪口にひどく敏感なので、当然怒りをぶちまけますが、相手には通じません。ジェネレーションギャップでしょうか。
 それから何やら色々あって、「僕」が己の無力さに茫然としていると、再び現れたミステリー研究会のメンバーが、絶望への招待状を差し出します。お前の絶望が見てみたい! のだそうです。この場合、構造としては「昔のように暗黒青春物語(あるいはその続き)を書いてよユヤタン!」と作者のファンが懇願するのと同値と言えましょう。砕けて言うと「鏡家サーガ書けやゴルァ!」というやつです。しかし、もうすぐ干支も三巡を迎えるいい大人の「僕」は、絶望を拒否することを選び、ベストエンディングを求め奔走します。さすがパパタン、毎日の幼稚園の送り迎えは伊達じゃありません。
 ラストでついに「僕」は自ら封印していた記憶と人格を覚醒させることになるんですが、なんとその正体は、才能の塊であると同時に〈鏡家サーガ〉を引き継いだ存在、その名も元『超高校級の殺し屋』大槻涼彦だったのです! ベストエンディングどこ行った。

「言葉もありませんってか。ケッコーケッコー。あのときのオレ、っていうか『僕』という存在は、ぜんぶ嘘っぱち。もっともらしく聞こえた『僕』の苦悩や鬱屈は、オレが三分くらいで考えたインスタントなものにすぎなかったわけ。『僕』にイラついたやつも、『僕』に同情したやつも、『僕』に注文つけたやつも、ハ〜イご苦労様。お疲れちゃーん。楽しかったぁ? それより自分の人生をがんばれっつ〜の。ドハハハハハハハハハハ!」
 暗黒青春小説〈鏡家サーガ〉の関係者が鮮やかにキメる絶望のちゃぶ台返し。そして「僕」もとい大槻は、ナイフでミス研をぶった斬ります。佐藤先生煽りすぎでしょ。笑うでしょ。

November 28, 2015

ダンガンロンパ十神(上)

 佐藤友哉が『ダンガンロンパ』ノベライズに挑む! との報を受け、それが『逆転裁判』みたいなゲームだというくらいの知識しか持たず、その『逆転裁判』も裁判をするゲームだというくらいの知識しかなかった僕は、直ちに検索サイト大手グーグルを通じ、当該作品に関する情報収集を開始した。その過程をここに披瀝することは不要であるばかりか無用でもあると思われるため詳細は省くことにするが、端的に言えば「あまり期待できるものではない」ということ、これである。イロモノ臭、キワモノ感ばかりが漂い、まあそもそも出版元からして星海社。読む前からあらゆる希望が閉ざされていると考える他ない。

 とは言え、新刊が出るとなれば興奮に胸高鳴らせ発売日を待ち、期待に胸膨らませて書店に殺到する以外の選択肢を持たないのがユヤタニアンの悲しむべきところ。一般的に、佐藤読者が佐藤作品に何を期待しているかといえば、雑なキャラクターが雑な目的意識のもと雑なプロットで雑な事件を雑に解決しながら雑な世界認識を雑な筆致でもって雑に描き出しているところ、というあたりで衆目の一致するところであろう。

 この作品『十神』においてもその雑っぷりは期待の斜め上のさらに上を進みながら十全に発揮され、いやほんと佐藤先生雑すぎっしょ……と、暗澹たる心持ちかつ憤然たる面持ちでページを捲り続ける我が身を鑑みるに、情けなくも口惜しくもあらん……。などと思いながら読み進めてたのですが、「上巻了」の文字を見た途端、あら不思議、この上ない満足感に支配されている自分に気付いたのであります。

 この小説が傑作か、或いは問題作かどうかはともかくとして、そういう意味では読んで良かったなあと思うし、そうは言っても、やっぱ続刊もあんまり期待しない方がいいよなって思いました。

August 29, 2015

八月二十九日

 女に振られて生きるのが嫌になった、もう誰も信頼できない、死ぬ(大意)、とのツイートを最後にMくんが消息を絶ち、暦の上では今日で一年。死んだという決定的な証拠は未だなく、今もどこかで平穏な生活を送っている可能性もないとは言えず、今後のカムバックの希望も絶無というわけではない。ただ、そう楽観できる根拠もまたなく、丸一年の沈黙からしてやはり死んだものと判断するのが妥当だろう。
 何件かの未遂という前例もある。自殺したといっても意外性がないばかりか当然の帰結のように思える。悲しいかというと別にそんなこともなく、どんな顔をすればいいかわからないの……くらいが実際のところ。自分には本当に感情がないのではないかと心配になってくる。
 本人の言葉を信じるならば、「失恋を苦にしての自殺」。あまりにアホ臭く、その上安っぽすぎるきらいはあるものの、動機はいかにも明快。もっともらしい理由ではある。日頃の言動からすると、Mくんと付き合うのは面倒臭そうだなあ(そりゃ振られるわ)、という感想しか湧かず、同情の余地もあまりない。ただまあ、彼のようにクヨクヨ考えるたちの人間にとっては、このくらいわかりやすい理屈があった方が死ぬには都合がよかったりするのだろう。
 僕とMくんの付き合いはわりと長かったので、自分も信頼できない人間に含まれていたのかと考えると少し気落ちするが、彼が死んだのにはやはり当日の僕の対応がまずかったせいもあるに違いなく、じゃあまあきっとそういうことなんだろう。やりとりを読み返すと僕の発言は本当に最悪そのもので、精神状態の不安定な人に対して言ってはいけないことばかり言っている。連絡が取れなくなった直後、逮捕されるのは嫌だなあとぼんやり思ったことを記憶している。起訴されたら確実に負ける。
 死にたいやつは死ね。僕はずっとそう考えてきたし、いろんなところでそう言明してもきた。生きるのが苦痛でしかないなら、死は合理的かつ現実的な選択肢であり得る。結局死を決断するのは本人の意志なのであり、他人の苦痛を味わうことは誰にもできない。自殺の原因を外部に求めようとするのは自殺した人間に対する侮辱にほかならず、僕が自分を責めるのは傲慢である。人には死ぬ自由がある。友人がいなくなるというのは確かに寂しいものであるけれど、Mくんがこれ以上苦しみを嘗めずに済むというのならば、それはむしろ喜ばしい話だと言わなくてはならない。整合性は失われていない。責任逃れといえばそうかも知れない。死後の世界を信じない僕は冥福を祈らない。

June 30, 2015

『絶歌』第一部

一読してわかるのは、書かれてないことが多すぎるってこと。犯行声明文など事件の核心とも思われるような部分もまるっと省略してたりするし、数え切れないほどあった前兆行動にもほとんど言及してない。えーと……猫殺しくらい?
こういったことは資料に当たればすぐにわかるわけで、本人としては隠しているつもりもないのかも知れないけれど、ともかくここには何かしらの意図があったと考えるべきだろう。
で、その意図は何かといろいろ考えてみたところ、書こうとした物語にそぐわないため割愛した、と見るのが妥当だという結論に達した。文中で物語を書きたかったと明言してるわけだし、特に無理な結論ではない。
現実は物語とは違い辻褄の合わないものなので、余さずありのまま書くとなるとどうしても不都合が出てくる。こういうのは触れずにおくに限る。ただ、自己分析の深化と解釈の変更ということで自分の供述に関する部分についてはがんがん改変できる。それは自分語りも多くなろうってなもんだ。

 これまで事件の原因については少年Aの生い立ちや環境要因、精神分析的解釈が色々と主張されたりしてきた。A自身もそういう方面のことを勉強した節が見受けられる。けど、A本人の意志というものについては長い間心の闇(ブラックボックス)として見過ごされてきたし、本人もあまり気にしていなかったように思われる。何せ人より共感能力が低い。反省は行為(殺した)とその結果(死んだ)という対象に限られていて、言ってしまえば表層的なものに留まっていたわけだ。でもそれだけではちょっとうまいこといかなくなってきたもんだから、もっと根本的に自分の罪というものを捉え直そうと決めた三十歳。思春期の黒歴史なんて、いやあ自分でもどうしてあんなことしたのかわかんないっすねー、というのが普通の感覚だし、Aにとっても多分そんな感じだったと思われる。そんなことを言ってるわけにもいかないものだから、適当な物語を作り上げてこれを解決しようとした。物語の文脈で一つ一つの行動の意味は書き換えられ、行き当たりばったりの犯罪は意志と実存を賭けた一大事業へと変貌する。偶然の暴力から必然の殺人へ。いわゆる運命化というやつだ。
こうして元少年Aは謎に包まれていた少年Aの犯行の動機というものを明るみの下へ晒け出すことに成功した。そんなものは元から存在していなかったわけだけど、犯した罪の責任を自分のものとして感じるためには些細なことである。

March 29, 2015

『クリスマス・テロル』の「テロル」

 2001年、佐藤友哉は『フリッカー式』で第二十一回メフィスト賞を受賞し推理小説作家としてデビューを果たす。翌年までに計三つの長編を発表するものの反響はゼロに等しく、売り上げは惨憺たる有様だった。続く新作を出せる見込みもなく作家として崖っぷちに立たされていた佐藤のもとへ最後のチャンスとして齎されたのが講談社ノベルス20周年記念企画「密室本」ーーいわゆる「密室」をテーマにした推理小説ーーの執筆依頼である。
 それまでの作風のままでは売れないということは佐藤自身も理解していた。かと言って売れ線の推理小説を書くには技術も足りなければアイデアも湧かない。そこで、もう後のない佐藤先生が考え付いたのが「テロル」という手法だった。
 ジャンル小説というものは作者と読者の間に一定の決まり事を要求するものであり、線引きは人それぞれであるにしても最低限のルールは保たれなければならない。当然ながらこの『クリスマス・テロル』という作品も推理小説としてのルールに忠実に則ったものだ。
 絶海の孤島で起こる密室からの消失事件、奇病に侵された少女の謎の死、二つの事件に翻弄されながらも美少女探偵・小林冬子は真相へと辿り着く——まさに推理小説のオーソドックスなパターンを踏襲する、それまでに刊行された三作品に較べれば著しくスペックの低いあらすじと言えよう。設定や展開に多少無理が見られ先行作品から引き写した部分も少なくないにせよ常識的な範囲に収まる普通の推理小説である。目立った点といえば、話の途中で作者が語り手の立場を逸脱して物語とは関係のない話を繰り広げること。それとエピローグに当たる最終章を慣例にない「あとがき」に充てているというところ。あとはなんだろ……あれ、これくらい?
 書き手が顔を覗かせる小説はそう珍しいものではない。古典推理小説でも読者への挑戦状とかやってたりするし(残念ながら未読ではあるが)。作家だって人間なので、あとがきを書きたくなることだってあるだろう。その辺りはあまりルール違反と責め立てるべきではないように思える。
 では『クリスマス・テロル』における「テロル」の核心とも言うべき点はどこにあるかというと、物語の流れを断ち切りエピローグを廃してまで作者・佐藤友哉が語ろうとしたその内容にある。
 簡単に言うと「あまりに自作が売れず作家を続けていられない」という泣き言だ。ただでさえ作者がしゃしゃって来て鬱陶しい小説だおいうのに、普通の推理小説を期待したーー何せ密室をテーマにした新本格推理小説という触れ込みだーー推理小説ファンにとっては興醒めも甚だしい。想像を絶する奇怪な事件、魅力溢れるキャラクター、秀逸なトリックに鮮やかな解決、あと世界観とか? 推理小説ファンが何を求めて誰も知らないような推理小説を読むのかはまあ人それぞれ色々事情があるのだろうが、少なくとも作者の愚痴を聞くためではないはずだ。話の途中で唐突に現れる作者が自分の無能を棚に上げ、小説が売れないのは怠慢な読者のせいだなどと駄々を捏ねるというのは私小説とかそういうのでやるものであって、推理小説とは話が違うのだ。いかに心の広い者といえどもこんなものを機嫌よく読了できるはずはない。実績のある御大ならまだしもひよっこ同然の新人作家に過ぎないのだ。単に下手糞なだけの作品であれば駄作の一言で無視するなり今後に期待するなりしとけば済む話だが、どう見たって推理小説というものを舐めきった態度でしかなく、言ってしまえば冒瀆である。出来不出来を云々する前に出版するレベルに達していない、読む価値はない、編集者は何をやっているのだ、金返せ! などと罵倒の声を上げたくなるのも人情というもので、実際一部で轟々と巻き起こった。
 しかし好評も悪評も評判は評判。それまで黙殺され続けていた作者としては、そうした反応を惹起することこそが目的であった。今で言う炎上マーケティングである。果たして密室本『クリスマス・テロル』は狙い通り話題を集め、(比較的)売れる。佐藤友哉にとっては初の重版出来となり、過去の作品にも再版がかかる。他の出版社からも執筆の依頼が来はじめる。「テロル」によって作家としての延命に成功したわけである。
 つまり、確かに「テロル」は作品のテーマと密接に関わり決して切り離せるものではないが、あくまで読者に手に取ってもらうためのきっかけに過ぎず、作品自体の面白さとはあまり関係がない。テーマというのはまあ書くことの孤独と不安、読む者と読まれる者の関係とかそういう感じだとして、それじゃあ『クリスマス・テロル』の面白さってのは一体何なのか、というのが本題として続くことになるわけなんだけれども長くなりそうだし面倒臭くなってきたから略するね。

March 22, 2015

佐藤友哉『ドグマ34』

 佐藤友哉作品に親しんでいる読者にとって、神戸児童連続殺傷事件は馴染み深いものだろう。酒鬼薔薇聖斗こと少年A逮捕のニュースを知ったミナミ君はショックで自殺しちゃうし、土江田さんは本人からして元少年A。一般的にも、あの頃物心のついていた人間なら誰しも印象深く記憶しているはずだ。学校の校門に子供の生首を置くというのは当時としては斬新奇抜なアイデアだったし、その声明文はある意味衝撃的なものだった。この事件を引き起こした犯人が十四才の少年だったと報道されたときには、世間の騒然ぶりときたらそれは大変なものじゃった……(以下回想が続く)。
 とはいえ、客観的に見れば実際に少年Aのやったことはしょうもなかった。英語駄目駄目だったし。それでも彼は自分の主張を社会に叩きつけ、何も考えずに生きている肉のカタマリみたいな人間たちを震撼させることには成功したわけで、まあ、人を刺したり猫を殺したのはマズかったが、そういう現実的な話ではなく、あくまでスタンスというか精神性的な面からのみ捉えるならば、あれはあれで立派な業績を上げたと言えなくもない。
 事件から十七年が過ぎ、少年Aも今では元少年Aどころか立派なアラサーだ。ユヤタン(笑)自身もとうに三十四才となり、マイホームでお父さんマシーンに従事するなど社会に順応しきっているらしい。作者と同い年であり、脂肪としがらみと面の皮を身に付けたこの作品の語り手も、現実を飼い馴らしながら日々を過ごしている。とは言っても、理解の及ばぬ事柄を既知の物語に押し込めわかったような口を利く大人たちの不誠実さに嫌悪を感じるくらいにはまだまだ青いままで、だから事件の舞台を訪れ少年Aの足どりを辿るツアーに参加するという行為は、僕らが嘲笑っていた醜い大人に自分自身がなったことで過去の自分から逆襲を受けるというのに等しい。さらに皮肉なことに、それについて恥じ入ることすらできないというのだ。だって大人だから。それはもう爆笑するしかない。大人になりきれないまま大人の役目を果たし続ける自分自身への違和感や困惑などというものを「大人らしさ」とは呼びにくいものではあるが、現実とはそういうものなのかも知れない、と大人の僕は考えたりもする。
 一方、途中から太田さんっぽい人と入れ替わって登場した謎の美少女は、当時の少年Aと同じく十四才。彼女にとって少年Aというのは等身大のキャラクターというやつで、自己の鏡像であると同時に一個のロールモデルでもある。軽薄で窮屈で偽善的な社会に敵意を向けるのは、今も昔も少年少女の仕事だ。僕にとっては遠く過ぎ去った季節であり、世界との戦いに子持ちのおっさんの出る幕はない。少女の憤懣に理解を示し、同情も共感もなく受け流すことだってできてしまうし、少年Aの行動の中に不器用さや鈍臭さを見て取り、笑い声を上げたり呆れ顔を浮かべたりもできる。まさしく大人の余裕ってやつだ。
 少女と別れ、ツアーを終えた家庭持ちの僕は、吐瀉物を撒き散らすという臆病なテロルで世界への敵意にかたを付け、殴りも殺しもすることなく嫁さんとチビちゃんの待つ家へと帰っていく。大人には世界と戦う前にしなければいけないことがたくさんある。老いてしまった僕にはそれを悲しんでいる暇もなければ必然もない。他に考えることは山ほどあるし、世界と戦う仕事は今この時にもどこかで誰かに引き継がれているはずだからだ。戦う少年少女がどこにいるのか、本当に存在しているのかは知らないが、少なくとも、地下鉄の中でナイフを手にして座る少女の姿を空想するくらいの自由は許されるだろう。世界は常に危機と隣り合わせだ。夜空を見るたびに思い出すがいい。

March 20, 2015

幸村と信繁

 トレードマークでもあるボーダーのカットソーに身を包んだ吉野さんは、乾杯を済ませてからというもの、幹事でもないのにテーブルの間をせわしなく立ち回り、空いた皿やグラスに視線を巡らせてはテキパキと注文をこなしている。その様子は普段の仕事中とまるで変わらず、苦労して隣の席を確保したというのに、これでは話しかけるどころではない。
 一段落ついた吉野さんが戻ってきたので、僕はさり気なく顔を背けた。じっと見つめていたことを悟られないためだ。椅子に座りこんだ吉野さんは、さすがに疲れが溜まっているようだ。どことなく気の抜けた表情を浮かべている。僕がグラスにビールを注ぐと、吉野さんはそっけなく「ありがと」と言った。
 僕は吉野さんと仕事以外ではほとんど会話をしたことがない。吉野さんには人を寄せ付けないところがあるというか、同じことだけれど、取っ付きにくいところがある。仕事ができて、気も利くし、人望だってあるのだが、どことなくよそよそしさを感じさせるのだ。吉野さんについて知っていることはあまりない。出身も、生い立ちも、住んでいる町も、好きな食べ物も、嫌いな芸能人も僕は知らなかった。ただ、一つだけ、吉野さんが歴史……特に戦国時代を趣味にしているというのだけは僕も耳にしていた。というのも、そのことが部内では有名な噂だったからだ。休みごとに全国を飛び回り史跡を訪れているだとか、大名と国の名前をすべて暗記しているだとか、自宅は関連グッズで足の踏み場もないだとか、エトセトラエトセトラ。だから今日の僕は話題に迷うということはほとんどなかった。
「吉野さんって、歴史好きってほんとですか?」
「うん……なんで?」
 とはいえ、いささか唐突だったかもしれない。いきなりこんな話を切り出されては、怪訝な顔をするのも当然といえば当然。会話ではホップとステップが大切だ。でも、このくらいなら予想もしていたし、口に出してしまった以上、今さら引き返せもしない。
「実は僕も武将とか好きで」
「え、誰?」
 手にしていたグラスをテーブルに置き、吉野さんは僕の方に身を乗り出すように向き直った。警戒心はあっという間に解けたらしい。僕はほっとする。
「真田幸村とか」
 真田幸村。猿飛佐助を始めとする真田十勇士を従え、奇抜な戦法を駆使して徳川方を翻弄、苦戦させながら、大坂夏の陣で壮絶な戦死を遂げた名将である。織田信長や徳川家康ほど有名ではないが、マニアしか知らないというほど無名ではない。話の導入には最適な選択だと、僕はそう考えていた。
「ノブシゲねえ……」
 吉野さんはそう言ってせせら笑い、一人ふんふんと頷いた。 僕には意味がわからない。
「の、のぶしげ?」
 それが武将の名前だろうというくらいの見当はつくが、真田幸村の話をしようとしているところに、どうしてそんな名前が出てくるのか。何か間違ったことを言ってしまったのだろうか。 「真田幸村の……」と言いかけたところで吉野さんは箸を取り上げ、「まだまだだねえ」と独りごちる。関心はすでに料理の方へと移ってしまったようだ。  何が起きたのかさっぱり理解できなかったが、思惑が外れてしまったということだけは確かだった。
「あ、今度、本貸してあげる」
 付け焼き刃は見透かされているのかもしれない。下心もバレているのだろう。なんだか機嫌がよさそうなのは、きっと酔っているからに違いない。
「ほんとですか?」
 でも僕はその申し出に即座に飛びついてしまう。満面の笑顔を浮かべた吉野さんが直視できず、僕は思わず目を逸らす。会話が途切れ、間抜けな返事しかできない自分が厭になる。
 明日になっても、僕と吉野さんの関係は、これまで通り何一つ変わることなく続いていくのだろう。ただの職場の先輩と後輩だ。この会話だって、たまたま席が隣り合ったから生まれたってだけで、本は借りても読まないまま返すに違いない。戦国武将なんてどうでもいいのだ。
 だけど、僕はせっかくの機会を棒に振りたくなかった。吉野さんに近づきたかった。踏み込みたかった。何かを言わなければいけない気がしたが、何を言うべきかはわからなかった。とにかくそんな気になっていた。気ばかりが焦っていたのだ。落ち着かない。目が泳ぐ。考えがまとまらないうちに口だけが勝手に動いた。
「歴史が好きな人、美人が多いってほんとですね」
 言い終えた瞬間、周囲の喧騒が浮き上がる。僕ははやくも後悔した。吉野さんが今どんな顔をしているか確かめるには、僕には少し勇気が足りない。
「ちょっとやだ、やめてよー」
 僕の内面を知ってか知らずか、吉野さんは急に笑いだした。それは、僕の言葉をすべてなかったことにするという宣告だった。
「わたし、でもあれだよ……中学時代とか、さ、西郷隆盛? 西郷隆盛に似てるって言われちゃっててさ……ていうか眉毛とかなんかドーンってしてるし、ていうか男じゃん?」
 それは完全に僕への拒絶の意思を示していた。吉野さんはひたすら早口でまくし立てるばかりで、もう目を合わせようともしてくれない。ただ隣に座っているだけの僕は、彼女の繰り出す自嘲めいた言葉を、黙って聞き続けることしかできない。
(了)