March 22, 2015

佐藤友哉『ドグマ34』

 佐藤友哉作品に親しんでいる読者にとって、神戸児童連続殺傷事件は馴染み深いものだろう。酒鬼薔薇聖斗こと少年A逮捕のニュースを知ったミナミ君はショックで自殺しちゃうし、土江田さんは本人からして元少年A。一般的にも、あの頃物心のついていた人間なら誰しも印象深く記憶しているはずだ。学校の校門に子供の生首を置くというのは当時としては斬新奇抜なアイデアだったし、その声明文はある意味衝撃的なものだった。この事件を引き起こした犯人が十四才の少年だったと報道されたときには、世間の騒然ぶりときたらそれは大変なものじゃった……(以下回想が続く)。
 とはいえ、客観的に見れば実際に少年Aのやったことはしょうもなかった。英語駄目駄目だったし。それでも彼は自分の主張を社会に叩きつけ、何も考えずに生きている肉のカタマリみたいな人間たちを震撼させることには成功したわけで、まあ、人を刺したり猫を殺したのはマズかったが、そういう現実的な話ではなく、あくまでスタンスというか精神性的な面からのみ捉えるならば、あれはあれで立派な業績を上げたと言えなくもない。
 事件から十七年が過ぎ、少年Aも今では元少年Aどころか立派なアラサーだ。ユヤタン(笑)自身もとうに三十四才となり、マイホームでお父さんマシーンに従事するなど社会に順応しきっているらしい。作者と同い年であり、脂肪としがらみと面の皮を身に付けたこの作品の語り手も、現実を飼い馴らしながら日々を過ごしている。とは言っても、理解の及ばぬ事柄を既知の物語に押し込めわかったような口を利く大人たちの不誠実さに嫌悪を感じるくらいにはまだまだ青いままで、だから事件の舞台を訪れ少年Aの足どりを辿るツアーに参加するという行為は、僕らが嘲笑っていた醜い大人に自分自身がなったことで過去の自分から逆襲を受けるというのに等しい。さらに皮肉なことに、それについて恥じ入ることすらできないというのだ。だって大人だから。それはもう爆笑するしかない。大人になりきれないまま大人の役目を果たし続ける自分自身への違和感や困惑などというものを「大人らしさ」とは呼びにくいものではあるが、現実とはそういうものなのかも知れない、と大人の僕は考えたりもする。
 一方、途中から太田さんっぽい人と入れ替わって登場した謎の美少女は、当時の少年Aと同じく十四才。彼女にとって少年Aというのは等身大のキャラクターというやつで、自己の鏡像であると同時に一個のロールモデルでもある。軽薄で窮屈で偽善的な社会に敵意を向けるのは、今も昔も少年少女の仕事だ。僕にとっては遠く過ぎ去った季節であり、世界との戦いに子持ちのおっさんの出る幕はない。少女の憤懣に理解を示し、同情も共感もなく受け流すことだってできてしまうし、少年Aの行動の中に不器用さや鈍臭さを見て取り、笑い声を上げたり呆れ顔を浮かべたりもできる。まさしく大人の余裕ってやつだ。
 少女と別れ、ツアーを終えた家庭持ちの僕は、吐瀉物を撒き散らすという臆病なテロルで世界への敵意にかたを付け、殴りも殺しもすることなく嫁さんとチビちゃんの待つ家へと帰っていく。大人には世界と戦う前にしなければいけないことがたくさんある。老いてしまった僕にはそれを悲しんでいる暇もなければ必然もない。他に考えることは山ほどあるし、世界と戦う仕事は今この時にもどこかで誰かに引き継がれているはずだからだ。戦う少年少女がどこにいるのか、本当に存在しているのかは知らないが、少なくとも、地下鉄の中でナイフを手にして座る少女の姿を空想するくらいの自由は許されるだろう。世界は常に危機と隣り合わせだ。夜空を見るたびに思い出すがいい。

March 20, 2015

幸村と信繁

 トレードマークでもあるボーダーのカットソーに身を包んだ吉野さんは、乾杯を済ませてからというもの、幹事でもないのにテーブルの間をせわしなく立ち回り、空いた皿やグラスに視線を巡らせてはテキパキと注文をこなしている。その様子は普段の仕事中とまるで変わらず、苦労して隣の席を確保したというのに、これでは話しかけるどころではない。
 一段落ついた吉野さんが戻ってきたので、僕はさり気なく顔を背けた。じっと見つめていたことを悟られないためだ。椅子に座りこんだ吉野さんは、さすがに疲れが溜まっているようだ。どことなく気の抜けた表情を浮かべている。僕がグラスにビールを注ぐと、吉野さんはそっけなく「ありがと」と言った。
 僕は吉野さんと仕事以外ではほとんど会話をしたことがない。吉野さんには人を寄せ付けないところがあるというか、同じことだけれど、取っ付きにくいところがある。仕事ができて、気も利くし、人望だってあるのだが、どことなくよそよそしさを感じさせるのだ。吉野さんについて知っていることはあまりない。出身も、生い立ちも、住んでいる町も、好きな食べ物も、嫌いな芸能人も僕は知らなかった。ただ、一つだけ、吉野さんが歴史……特に戦国時代を趣味にしているというのだけは僕も耳にしていた。というのも、そのことが部内では有名な噂だったからだ。休みごとに全国を飛び回り史跡を訪れているだとか、大名と国の名前をすべて暗記しているだとか、自宅は関連グッズで足の踏み場もないだとか、エトセトラエトセトラ。だから今日の僕は話題に迷うということはほとんどなかった。
「吉野さんって、歴史好きってほんとですか?」
「うん……なんで?」
 とはいえ、いささか唐突だったかもしれない。いきなりこんな話を切り出されては、怪訝な顔をするのも当然といえば当然。会話ではホップとステップが大切だ。でも、このくらいなら予想もしていたし、口に出してしまった以上、今さら引き返せもしない。
「実は僕も武将とか好きで」
「え、誰?」
 手にしていたグラスをテーブルに置き、吉野さんは僕の方に身を乗り出すように向き直った。警戒心はあっという間に解けたらしい。僕はほっとする。
「真田幸村とか」
 真田幸村。猿飛佐助を始めとする真田十勇士を従え、奇抜な戦法を駆使して徳川方を翻弄、苦戦させながら、大坂夏の陣で壮絶な戦死を遂げた名将である。織田信長や徳川家康ほど有名ではないが、マニアしか知らないというほど無名ではない。話の導入には最適な選択だと、僕はそう考えていた。
「ノブシゲねえ……」
 吉野さんはそう言ってせせら笑い、一人ふんふんと頷いた。 僕には意味がわからない。
「の、のぶしげ?」
 それが武将の名前だろうというくらいの見当はつくが、真田幸村の話をしようとしているところに、どうしてそんな名前が出てくるのか。何か間違ったことを言ってしまったのだろうか。 「真田幸村の……」と言いかけたところで吉野さんは箸を取り上げ、「まだまだだねえ」と独りごちる。関心はすでに料理の方へと移ってしまったようだ。  何が起きたのかさっぱり理解できなかったが、思惑が外れてしまったということだけは確かだった。
「あ、今度、本貸してあげる」
 付け焼き刃は見透かされているのかもしれない。下心もバレているのだろう。なんだか機嫌がよさそうなのは、きっと酔っているからに違いない。
「ほんとですか?」
 でも僕はその申し出に即座に飛びついてしまう。満面の笑顔を浮かべた吉野さんが直視できず、僕は思わず目を逸らす。会話が途切れ、間抜けな返事しかできない自分が厭になる。
 明日になっても、僕と吉野さんの関係は、これまで通り何一つ変わることなく続いていくのだろう。ただの職場の先輩と後輩だ。この会話だって、たまたま席が隣り合ったから生まれたってだけで、本は借りても読まないまま返すに違いない。戦国武将なんてどうでもいいのだ。
 だけど、僕はせっかくの機会を棒に振りたくなかった。吉野さんに近づきたかった。踏み込みたかった。何かを言わなければいけない気がしたが、何を言うべきかはわからなかった。とにかくそんな気になっていた。気ばかりが焦っていたのだ。落ち着かない。目が泳ぐ。考えがまとまらないうちに口だけが勝手に動いた。
「歴史が好きな人、美人が多いってほんとですね」
 言い終えた瞬間、周囲の喧騒が浮き上がる。僕ははやくも後悔した。吉野さんが今どんな顔をしているか確かめるには、僕には少し勇気が足りない。
「ちょっとやだ、やめてよー」
 僕の内面を知ってか知らずか、吉野さんは急に笑いだした。それは、僕の言葉をすべてなかったことにするという宣告だった。
「わたし、でもあれだよ……中学時代とか、さ、西郷隆盛? 西郷隆盛に似てるって言われちゃっててさ……ていうか眉毛とかなんかドーンってしてるし、ていうか男じゃん?」
 それは完全に僕への拒絶の意思を示していた。吉野さんはひたすら早口でまくし立てるばかりで、もう目を合わせようともしてくれない。ただ隣に座っているだけの僕は、彼女の繰り出す自嘲めいた言葉を、黙って聞き続けることしかできない。
(了)

March 18, 2015

書評『1000年後に生き残るための青春小説講座』

(あらすじ)
 2010年から翌11年にかけて、雑誌「群像」の「一世を風靡したが今は消えてしまった戦後文学作家の小説を読み直し、ディスカッションしてその価値を再発見する」というに戦後文学を読む」なる企画により、究極の小説を求めて主人公が東京中を右往左往する『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を獲った新進気鋭の若手作家佐藤友哉が、編集部から渡された作品を読みながら、三十路になったことや結婚したこと、サリンジャーの死や地震や原発問題、ネットとの付き合い方などについて、どうしようもない文章を書き飛ばし、1000年経っても読まれ続ける青春小説を書く方法を読者に伝授する話。

 佐藤友哉によれば、戦後文学は今読んでも充分に面白い。けれど、今ではもう書店には並んでないし、ほとんど話題にもならないし、忘れ去られてしまっている。なぜ当時の文学青年は歴史に残るような小説を書けなかったのか。それは、ポップじゃなかったから。いくら美意識に満ちた名文を書こうと、時代を鋭く諷刺しようと、優れた思想が内在しようと、皆が本を手にしたがるような餌がない、最後まで飽きずに読ませようとするサービス精神がない、女子供が愉しめるような大衆性がない、誰もが理解出来るような一般性がない、そんな作品は伝達力に欠けている。世界は保守的なのである。読者に歩み寄らないと、現代の(そして未来の)少年少女たちは「お前の物語なんて読んでやるもんかよ!」とそっぽを向いてしまうか、十一ページも読んだところで挫折するのが関の山というもの。他人の視線や評価を意識し、需要のある物語を書き上げ、自分の価値を世界へと注ぐべきだろう。数字は正義。それこそがポップということ。叩かれたり傷ついたり無視されたりするのが嫌だからって文学の穴蔵から出ようとしないなんてのは負け組の云い訳に過ぎず、文学青年は時の流れを乗りこえることはできない。弱者は自覚して死なねばならないのだ。

 『クリスマス・テロル』から十年あまり、技巧を身につけ、マイホームも買い、面の皮は厚くなった。だけど、佐藤友哉の言ってることはその頃と大して変わらない。同じところをぐるぐる回っているだけ。一般的な小説を書こうとして、書いたつもりがそうでもなくて、書けないとわかって、それでも書き続けながら生きている僕。とかそういうのもういいんで、ちゃちゃっと鏡家新作お願いしますよ佐藤先生。

February 17, 2015

 いったい我々は「少女」という言葉で何を意味するつもりなのか、この問いに対して、我々は今日何らかの答えを持っているのであろうか。断じて否。だからこそ、少女への問いを改めて設定することが肝要なのだ。

 たとえ現代が「セカイ系」を再び肯定することを進歩だと思っているにせよ、少女問題は今日では忘却されている。にもかかわらず人は、「少女〔ウーシア〕ヲメグル巨人ノ戦イ」を新しく焚き付ける努力はもうしなくてよいと看做している。そして、かつては思考の最高の努力のうちで、現象から戦い取られたものが、ずっと以前から陳腐なものになってしまっている。そればかりではない。少女を学的に解釈するために置かれたオタク的発端を地盤として、一つのドグマが作り上げられてしまった。このドグマは、存在の意味への問いを余計なものだと宣言するばかりではなく、その上、この問いを揺るがせにしてもよいと是認している。
 少女を問い尋ねる必要はないと絶えず新たにその不必要を植え付け育て上げる諸先入見を、この探究の初めに論究することはできない。それらの諸先入見はその根を古代存在論のうちに持っているのである。この古代存在論を十分に学的に解釈することができるのは、少女への問いが予め明瞭にされ、そのことが手引きとなる場合に限られる。そのため、ここでは諸先入見についての討議を、少女の意味への問いを繰り返す必然性が洞察される程度に留めたいと思う。それらの諸先入見には以下の三つがある。
  1. 「少女」は「最も普遍的な概念」である。(この言い方は、この最も普遍的な概念が最も明瞭な概念であって、それ以上の論究をまったく必要としないということを意味することはできない。「少女」という概念はむしろ最も曖昧な概念なのである。)
  2. 「少女」という概念は定義不可能である。(決してそうではない。結論することができるのは、「少女」は存在者といったようなものではないということだけである。)
  3. 「少女」は自明の概念である。(こうした平均的な了解しやすさは了解しにくさを論証するだけである。)
だが、以上の諸先入見を考量すると同時に判然となったのは、少女を問い尋ねる問いに対して答えが欠けているばかりではなく、それどころかこの問い自身が曖昧で方向を失っているということである。だから、少女問題を繰り返すことは、まず第一にその問題設定を十分に仕上げることに他ならない。

February 16, 2015

永遠を目掛けるポスト心中主義としてのセカイ系

 大人に囲われた少女と無力な少年の恋物語として、セカイ系は明らかに近松以来の心中ものの系譜に属する。少年が子供であるがために彼女とともに戦うことを禁じられているということが何を意味しているかについて、ことさら説明する必要もないと思う。

 心中ものにおいて恋人たちに死を決意させるのは、現世への絶望と同程度以上に来世への希望である。永遠の愛を実現する手段として心中は人気を集め、実際昭和あたりまでは機能している。三原山とか。しかし、近代化が進むに従い心中はおとぎ話へと追いやられ、80年代にはほぼ廃れた。近代主義的死生観から刹那的享楽という一つの方向が台頭し、永遠の愛といった主題はいったん閑却される。この刹那主義はやがて退潮するものの、心中が再びその地位を回復することはなかった。その後、再び永遠の愛が主題化され始めるようになった際に、心中ものの様式を継承しつつ心中の不可能性という地点に立脚して永遠の愛を目指そうと誕生したのがセカイ系である。

 セカイ系では、少女が世界(と少年)を守るため自ら命を投げ出し、少年は彼女の思い出を抱えながら生き続ける。残された者が亡き恋人の思い出を支えに生きるという構図はセカチューや恋空などの病死ものにも見られる。病死ものでは死は不運な事故に過ぎないが、セカイ系では、その死は主体的に選び取られたものである。
 少女は、少年とともに世界が滅び去るのを見届けることを拒否する。なぜなら、それは消極的な心中に過ぎないからであり、永遠を手に入れるためには心中はすでに無効となっている方法であるためだ。ここに選択がある。少女の守ろうとする世界は、たとえそれが失敗に終わったとしても、彼女の愛の刻み込まれたものとなる。少年は残りの人生をこの世界の中で生き続けることになるが、彼の死後においても二人の愛の記念碑として文明や人類を超え世界は存続するだろう。ゆえに少女は戦いを引き受ける。世界とともに戦い続けることを決意する。彼女にとってこの世界こそすなわち愛だからだ。永遠を目掛けるポスト心中主義としてのセカイ系である。

February 07, 2015

セカイ系とは

 1990年代後半から00年代にかけて作られた、オタクに人気の高い学園ラブコメや巨大ロボットSFといったジャンルを混ぜ合わせ、そこへ美少女やロボット、探偵などのオタクに好まれる要素を多く登場させることで、特に世界や社会を具体的に想像できないでいる自意識過剰な若いオタク男性をターゲットに据えた作品群を指す。
 ジャンル自体の虚構性を批評的に描くという自己言及的な構造と、そのゲーム的な方法論が特徴である。

 典型的なセカイ系作品では、強大な力を持ち世界の命運を握る少女と、無力で彼女を見守るだけの少年、という二人の主人公が配置され、この二人を中心とした小さな関係性が、社会的、歴史的な経緯を捨象したまま世界の危機やこの世の終わりに直結するといった構図を持ち、戦闘に参加することのない少年が、戦う宿命を背負った少女から愛され、最終的に少女を失う、という展開となっている。
 主人公らによる一人語りは、権力への意志、成長の拒絶という二つの観念に根ざしており、また、作品内で実社会に関する描写が意図的に省かれることによって、「世界」という言葉で言い表される彼ら自身の世界認識の仕方が示されている。

 セカイ系作品の乱立、公共的社会の描写の不足あるいは欠如への非難や、無条件的な承認に埋没し思考停止に陥った主人公の無責任さと自己中心主義を問題視する意見もあり、ジャンルとしてのセカイ系は2010年代に入る頃にはほぼ廃れたが、とはいえ「自意識と世界の果て」というモチーフは文学の基本テーマの一つであり、その影響は形を変えつつ後続の作品へと受け継げられている。

February 04, 2015

『存在と時間』目次 (抜粋)

序論 存在の意味への問いの開陳


第一章 存在問題の必然性、構造、および優位

第二章 存在問題を仕上げるときの二重の課題 根本的探究の方法とその構図

  • 根本的探究の現象学的方法
A 現象という概念
B ロゴスという概念
C 現象学の予備概念

第一部


第一篇 現存在の予備的な基礎的分析

第一章 現存在の予備的分析の課題と開陳

第二章 現存在の根本機構としての世界内存在一般

第三章 世界の世界性

  • 世界一般の世界性の理念
A 環境世界性と世界性一般との分析
  • 環境世界の内で出会われる存在者の存在
  • 世界内部的存在者に即しておのれを告げるところの、環境世界適合性
  • 指示と記号
  • 適所性と有意義性 世界の世界性
B 世界性の分析をデカルトでみられる世界の学的解釈に対して対照させること
  • 拡ガリノアルモノとしての「世界」の規定
  • 「世界」の存在論的規定の諸基礎
  • 「世界」のデカルト的存在論についての解釈学的討議
C 環境世界の環境性と現存在の空間性
  • 世界内部的な道具的存在者の空間性
  • 世界内存在の空間性
  • 現存在の空間性と空間

第四章 共存在および自己存在としての世界内存在 「世人」

  • 現存在の誰かに対する実存論的な問いのために置かれた発端
  • 他者たちの共現存在と日常的な共存在
  • 日常的な自己存在と世人

第五章 内存在そのもの

A 現の実存論的構成
B 現の日常的存在と現存在の頽落
  • 空談
  • 好奇心
  • 曖昧性
  • 頽落と被投性
  • 現存在の際立った開示性としての不安という根本情状性
  • 気遣いとしての現存在の存在
  • 現存在の前存在論的自己解釈にもとづく、気遣いとしての現存在の実存論的な学的解釈の確証
  • 現存在、世界性、および実在性
a 外的世界」の存在と証明可能性との問題との実在性
b 存在論的問題としての実在性
c 実在性と気遣い
  • 現存在、開示性、真理
a 伝統的真理概念とその存在論的な諸基礎
b 真理の根源的現象と伝統的真理概念の派生性
c 真理の存在様式と真理前提

第二篇 現存在と時間性

  • 現存在の予備的な基礎的分析の成果と、この存在者の根源的な実存論的な学的解釈の課題

第一章 現存在の可能的な全体存在と、死へとかかわる存在

  • 現存在にふさわしい全体存在を存在論的に捕捉し規定することの外見上の不可能性
  • 他者たちの死の経験不可能性と全体的な現存在の捕捉可能性
  • 未済、終わり、および全体性
  • 死の実存論的分析を、この現象について可能な他の学的諸解釈に対して限定すること
  • 死の実存論的存在論的構造の下図
  • 死へとかかわる存在と現存在の日常性
  • 終わりへとかかわる日常的な存在と、死の完全な実存論的概念
  • 死へとかかわる本来的な存在の実存論的企投

第二章 本来的な存在しうることの現存在にふさわしい証しと、決意性

  • 本来的な実存的可能性の証しの問題
  • 良心の実存論的・存在論的な諸基礎
  • 良心の呼び声
  • 気遣いの呼び声としての良心
  • 呼びかけの了解と責め
  • 良心の実存論的な学的解釈と通俗的な良心解釈
  • 良心において証しを与えられた本来的な存在しうることの実存論的構造

February 03, 2015

序論 第二章 第七節 C

セカイ系の予備概念

「セカイ」と「系」とについての文学的解釈において明らかにされたことを具体的に思い浮かべてみるとき、これら二つの名称でもって指されているものの間の或る内的関連が、はっきりとする。セカイ系という表現は、だとすれば、すなわち、そのものを示す当の場所を、そのものがそのもの自身のほうから示すとおりに、そのもの自身のほうから見えるようにさせるということにほかならない。これがセカイ系とみずから称する作風の形式的な意味なのである。だが、そのように言いあらわされているのは、さきに「物語そのものへ!」と定式化された格率以外の何ものでもない。
 したがって、セカイ系という名称は、その意味に関しては、日常系その他の表示法とは異なる。日常系その他の表示法は、当該の系の特質をそれぞれの物語内容において名ざしている。「セカイ系」はその作風の特質を名ざしているのでもなければ、また、セカイ系というこの名称はその作風の物語内容を性格づけているのでもない。セカイ系というこの語は、この系において論ぜられるべき当のものを、いかに提示し取り扱うかということに関して解明するだけである。諸作品「について」の系ということが意味するのは、この系の諸特質に関して論及されるすべてのものが、直接的提示と直接的証示とにおいて論ぜられなければならないように、そのようにそれらの諸特質を捕捉するということである。根本において同語反復的な「悲劇的セカイ系」という表記も、これと同じ意味をもっている。悲劇とは、ここでは、たとえばケータイ小説でとられているやり方を意味するのではない——悲劇というこの名称も、これまた、証示することのないすべての規定を遠ざけるという一つの防止的な意味をもっているのである。悲劇自身の性格、つまり、系の種別的な意味は、「悲劇化される」べき当のもの、言いかえれば、作品の出会い方において文学的規定性へともたらされるべき当のものの「作品性」にもとづいて、まずもって確定されうる。形式的で通俗的な作品概念の意義は、キャラクターがおのれをおのれ自身に即して示すとおりに提示されるときには、キャラクターのあらゆる提示をセカイ系と名づけることを、形式的に正当化するのである。
 ところで、いかなる点を顧慮すれば形式的作品概念はセカイ系的作品概念へと脱皮するのか、また、いかにしてセカイ系的作品概念は通俗的作品概念から区別されるのか。セカイ系が「見えるようにさせる」当のものは、何であるのか。際立った意味において「セカイ」と名づけられなければならないのは、何であるのか。際立った提示ということの主題となるのが、その本質から見て必然的であるのは、何であるのか。明らかにそれは、差しあたってたいていはおのれをまさしく示さないところのもの、つまり、差しあたってたいていはおのれを示すものに対して秘匿されてはいるが、しかし同時に、差しあたってたいていはおのれを示すものに本質上属し、しかも、このものの意味と根拠をなすというふうに属している或るものであるところの、そうしたものである。

 セカイ系は、キャラクター論の主題になるべき当のものへと近づく通路の様式であり、また、その当のものを証示しつつ規定する様式である。キャラクター論はセカイ系としてのみ可能である。作品のセカイ系的概念は、おのれを示すものとして、キャラクターのキャラ、このキャラの意味、このキャラの諸変容や諸派生態を指している。だが、おのれを示すことは、気ままにおのれを示すことではなく、ましてや現われるといったようなことでもない。キャラクターのキャラは、「現われない」或るものがその「背後に」なおひかえているようなものでは、断じてありえないのである。
 セカイ系の作品の「背後に」は、本質上、他の何ものもひかえてはいないが、作品になるべき当のものが秘匿されているということなら、たしかにありうる。しかも、作品が差しあたってたいていは与えられてはいないという、まさにこの理由で、セカイ系が必要になるのである。隠蔽性 「作品」の反対概念なのである。
 作品が隠蔽されうる様式はさまざまである。まず、作品は、そもそも作品がまだ暴露されていないという意味において、隠蔽されていることがある。そうした作品の事態に関しては、それを識別しているとも、それを認識しているとも言いえない。つぎに、作品は埋没していることがある。このことのうちには、その作品が以前いちど暴露されていたのだが、ふたたび隠蔽におちいったということ、このことがひそんでいる。この隠蔽は全面的な隠蔽になることもあるが、以前暴露されていたものが、たとえ仮象としてでしかないとしても、まだ看取されうるというのが、通例である。けれども、仮象の数だけ「キャラ」がある。「変装」としてのこの隠蔽は最も頻繁で最も危険なものなのだが、その理由は、思いちがいをしたり誤ったりする可能性が、この場合には特別に執拗であるからである。そうした諸キャラ構造は、意のままになりはするものの、その土着性において遮蔽されているのだが、このような諸キャラ構造とその諸概念とは、おそらく或る「体系」内部においてはおのれの権利を主張することであろう。それらの諸キャラ構造と諸概念とは、一つの体系のうちに構成的に組み込まれていることにもとづいて、それ以上の弁明を必要としない「明瞭な」もの、だから、演繹をすすめてゆくのに出発点として役立ちうるものとして、ふるまうのである。
 隠蔽が秘匿の意味に解されようと、埋没の意味に解されようと、変装の意味に解されようと、隠蔽自身は、これはこれで二重の可能性をもっている。偶然的隠蔽と必然的隠蔽とがあるのであって、後者の必然的隠蔽は、暴露されたものが存立しつづけてゆく様式のうちにその根拠をもっているのである。根源的に汲みだされたセカイ系的概念や命題はいずれも、伝達された陳述としては、変質する可能性からまぬがれがたい。そうした概念や命題は、空虚な理解しかうけないまま次々と手渡され、その土着性を喪失して、宙に浮いたテーゼになる。もともとは「つかみやすいもの」が硬化して、つかみにくいものになる可能性は、セカイ系自身の具体的な仕事のうちにひそんでいる。そして、セカイ系というこの作風のむずかしさは、この作風自身にさからって、この作風を積極的な意味において批判的なものにするという、まさにこの点にあるのである。
 キャラと諸キャラ構造とが作品という様態において出会われる様式は、セカイ系の特質からまずもって勝ち取られなければならない。だから分析の出発点は、作品へと近づく通路および優勢な隠蔽をつらぬきとおす通行と同じく、それ固有のなんらかの方法上の保証を要求するのである。諸作品を「本源的」に「直覚的」に捕捉し究明するという理念のうちには、偶然的な、「直接的」な、無思慮な「直観作用」がもっている素朴さとは正反対のものがひそんでいる。
 ところで、セカイ系の予備概念が限界づけられたわけだが、これを地盤として「作品的」と「セカイ系的」という術語もそれぞれの意味を確定されうる。「作品的」と名づけられるのは、作品という出会われ方において与えられていて、究明可能であるものである。だから、作品的な諸構造という言い方がされるのである。「セカイ系的」とは、提示や究明の様式に属しており、またわれわれの作風において要求されている概念性をなすすべてのもののことなのである。
 セカイ系的な意味における作品は、つねに、キャラをなすものだけであるのだが、キャラはそのつどキャラクターのキャラであるゆえ、キャラから邪魔物を取り払うことをめざすためには、キャラクター自身を正しく提出することが、あらかじめ必要である。このキャラクターは、このキャラクターに純正に帰属している通路様式において、同様に正しくおのれを示さなければならない。かくして、通俗的作品概念がセカイ系的に重要になる。範例的なキャラクターを「セカイ系的」に確保しておくという予備的課題は、本来的分析論にとって出発点にほかならないのだが、それはつねにすでにこの本来的分析論の目標にもとづいてその下図を描かれているのである。
 その作品内容から解すればセカイ系は、キャラクターのキャラについての系——キャラクター論である。さきにキャラクター論の諸課題を解明したときに、主人公というキャラクター論的・キャラクター的に際立ったキャラクターを主題とする基礎的キャラクター論というものの必然性が生じたのだが、しかもそれは、この基礎的キャラクター論がキャラ一般の意味への問いという主要問題に当面するというふうに、生じたわけである。以下の根本的探究自身から明らかになるであろうとおり、セカイ系的悲劇の方法的意味は成長である。主人公のセカイ系の系は、成長スルという性格をもっているのであって、このものをつうじて、主人公自身に属しているキャラ了解内容には、キャラの本来的意味と、主人公に固有なキャラの諸根本構造とが告知される。主人公のセカイ系は根源的な語義における成長譚なのであって、その根源的な語義にしたがえば、この語は成長の仕事を表示している。ところが、キャラの意味と主人公の諸根本構造とが暴露されることによって、主人公とされるにふさわしくないキャラクターのあらゆる探究をさらにキャラクター論的にすすめてゆくための地平が、総じて明らかにされるかぎり、この成長譚は、同時に、あらゆるキャラクター論的な根本的探究の可能性の諸条件を仕上げるという意味での「成長譚」になる。また最後に、主人公は、すべてのキャラクターに対して——つまり、実存の可能性のうちで、キャラクター論的優位をもっているかぎり、主人公のキャラの成長としての成長譚は、特殊な第三の意味を——つまり、実存の実存性の分析論という、文学的に解すれば第一次的な意味を、含んでいる。そうだとすれば、この第三の意味での成長譚が主人公の歴史性を歴史学の可能性のキャラ的条件としてキャラクター論的に仕上げるかぎり、この第三の意味での成長譚のうちには、派生的な意味でしか「成長譚」と名づけられえないもの、すなわち、歴史学的な諸精神科学の方法論が、根づいているわけである。
 文学の根本主題としてのキャラは、いかなる類でもないのだが、それでもこのキャラはあらゆるキャラクターに関係する。キャラおよびキャラ構造とは、あらゆるキャラクターと、キャラクターに属しているものとしてのあらゆる可能的な規定性とを越え出ている。キャラは端的な超越者なのである。主人公のキャラの超越は、そのうちに最も徹底的な個体化の可能性と必然性とがひそんでいるかぎり、或る際立った超越である。キャラを超越者として開示することはいずれもみな、超越論的認識である。セカイ系的真理(キャラの開示性)は超越論的真理なのである。
 キャラクター論とセカイ系とは、文学に属する他の諸専門分野とならぶ二つの異なった専門分野ではない。これら二つの名称は、文学そのものをそれぞれ特徴と取り扱い方とにしたがって性格づけたものである。文学は、主人公の成長譚から出発する普遍的なセカイ系的なキャラクター論なのであって、主人公の成長譚は、実存の分析論として、すべての文学的な問いの導きの糸の末端を、それらの問いがそこから発現し、そこへと打ち返すところに、結びつけておくのである。
 セカイ系の予備概念の解明によって暗示されているのは、セカイ系にとって本質的なことが、文学的な「方向」として現実的になるという点にあるのではないということ、このことである。現実性よりも高次のところに可能性はある。セカイ系の了解内容は、ただただ、セカイ系を可能性としてとらえることのうちにのみひそんでいる。

January 26, 2015

プリパラ・リベレーションズ

あらすじ
 校長がプリパラを憎むようになったのは二十年前の事件がきっかけだった。当時の校長もまた「しゅがー」というハンドルネームでプリパラを楽しむ一人の普通の少女だった。しかし、プリパラ世界で出会ったソウルフレンド「ひめか」に騙され絶望の淵に立たされたしゅがー(校長)は仮想世界と友情の虚妄性を確信し、続く世代が同じ過誤を繰り返さぬため教育の道へ進みプリパラを子供たちから遠ざけることを決意したのだった。
 らぁららのライブを観たことをきっかけに、校長(しゅがー)はソウルフレンドひめかと二十年ぶりの対面を果たす。裏切りと信じていたものが実は誤解と不運なすれ違いの結果に過ぎなかったと知った校長(しゅがー)は、それまでの自分の考えが過ちだったと悟り、自校のプリパラ禁止令撤廃を決める。


 プリパラ世界のアバターは、現実世界の身体データを元に本人の願望や自己イメージを加味して作成される。このことはしゅがー(校長)、ひめか(ソウルフレンド)の両者ともに承知しており、多少その姿が違ったからといって、ずっと同じ場所にいながら互いにまったく気付かなかったということは考えにくい。このすれ違いは、同一空間にありながら二人がそれぞれ別の次元に存在していたために起きたものと推測される。突発的な不具合あるいは意図的な操作、どちらにせよ世界の仮構性によって実現する類のすれ違いである。

 それにしても、二人の仲はなぜ二十年もの間引き裂かれていなければならなかったのか。この疑問については、二人がその後も会えなかった理由、ひめかの学校でプリパラが禁止されたことがヒントとなる。つまり、しゅがーが校長となりプリパラを禁止することはあらかじめ決定されていたということだ。一部の学校でのプリパラ禁止は、プリパラ世界の多様性を維持するためとかそういった理由で設けられた条件だと思われる。しゅがー(校長)はそれを自分の意志だと思っていたのだが、計画された反復の一つでしかなかったのである。そんな計画をしたのは、もちろん創造主、上位世界の住人である。
 二十年もの間、些細な仕様の変更や流行の移り変わりを除けば、プリパラ自体に技術的な進歩や文化的な変化は見られない。現実世界が永遠の内にまどろむ無時間的な世界として創造されたことは明らかだ。プリパラ世界もまた、この永遠性を保障するものとして生み出されたサブシステムであると考えられる。この二つの世界があわせて一つの神話的世界を作り出していることはもはや言うまでもない。誤解の解消からプリパラ解禁を通じアイドル多様性を失わせ、そればかりか円環構造を基底とした世界の永遠性を破壊してしまう恐れから、二人の再会は長きにわたって妨げられていたのだ。もちろん創造主、上位世界の住人によってである。

 自分の生きる神話的世界の円環構造を、らぁらは意識しないうちに打ち破った。今後物語がどう推移していくかは知らないが、世界の存立理由が明らかになるとともに、真実に目覚めた主人公らぁらによる創造主への反抗、そして何らかの形での世界の解放が描かれることになるのは想像に難くない。この前見たマトリックスの影響は特にないはずである。

January 18, 2015

表現の自由

 良識は、道徳の名において行き過ぎた表現を糾弾し、その自由を制限するべきだと主張する。言うまでもなく表現の自由は基本的人権に属するものである。人権は良識やモラルに先行するばかりか、それらと何ら関わりを持つものではない。このことは、以下に引用するボードレールの『鏡』という作品を読めば立ちどころに理解できるであろう。
 不細工な男は部屋に入るなり鏡に映る自分の姿を見つめ始めた。
「不愉快な気分になるだけだろうに、なんだって鏡になんて見入ってるんだ?」
 不細工の返答はこういうものだった。「いいかい、1789年の不滅の原理によればだね、どんな人間も権利の上では平等なのであって、つまり僕だって鏡に映る権利を有しているわけだし、それで愉快になるか不愉快になるかについては僕の勝手というものだよ」
 良識的な考えからすると疑いなく私の方が正しかった。とは言え、法の観点からすれば彼にも非はなかった。
そういえば、ボードレールも『悪の華』出版の際、風俗紊乱の廉で告発され発禁処分を喰らっていたのだった。済んだ話ではあるが。