人は意識しないまま「理由」や「意味」を見出し、客観的な出来事は因果の繋がりとして語られる。これが本書の中で「物語」と呼ばれるものだ。物語化の作用は、人間が生きていく上で不可欠な役割を担っている。好むと好まざるとにかかわらず、人は何かと意味づけずにはいられない動物なのである。だが、これも度を過ぎれば自分や他人を苦しめる原因ともなる。本書は、こうした物語が、人間の思考や行動に影響を与える仕組みを、できるだけ簡明に、明瞭な言葉で解き明かそうとする試みである。
目指されているのは、「物語」の絶対化を避けると同時に、虚偽として拒絶するのでもなく、適度な距離を保って付き合っていくにはどうするべきかという問題だ。答えとして示されるのは、一種の中庸の姿勢とでも言うべき態度なのだが、その難しさもまた幾度となく繰り返し強調される。思うようには悟りへの道は開かないものである。
個人的に興味深いのは、この本自体を一つの物語として読めるということだ。様々な媒体で見られる感想やレビューは、読んだ人がそれぞれの要求に応じてこの本を意味づけし、自分の物語へと組み込んでいく様々な具体例となっている。苦しみの原因に光を投げかける啓発書、新たな視点を提供するビジネス書、古今の名作を独特な切り口で紹介するブックガイド、物語論の入門書、等々。著者自らも、この本が「物語化」を原因とする個人的な苦悩から生まれた、現在も続く苦闘の過程だと述べている(まさに物語だ)。
本書の狙いからすれば、その内どの読み方が正しいのか、といった論議は的外れなものだろう。解釈は読者へと委ねられており、著者自身も様々な読まれ方を恐れてはいない。自らを縛りつける物語からの解放は、同時に、自己が他者(の物語)へと開かれることでもある。中庸というのは、思うに、なかなかエキサイティングかつスリリングな体験のようだ。
March 22, 2017
February 19, 2017
『ダンガンロンパ十神』は〈鏡家サーガ〉
いきなり『ダンガンロンパ十神』は〈鏡家サーガ〉だったんだよ! なんて言っても頭がおかしいと思われるのが関の山だし、順を追って話しましょうね。
まず第一に、〈鏡家〉っぽいキャラが出てくる。
第二に、〈鏡家〉っぽいテーマが扱われている。
第三に、ここがもっとも重要なのだが、著者がユヤタンである。
まあ〈鏡家サーガ〉そのものとは言えないまでも、その変奏として読んでも間違いではないだろうし、バチも当たらないだろうなといった感じ。
もちろん〈鏡家〉のキャラクターが登場したから〈鏡家サーガ〉ということにはならないし、そもそもそんなキャラクターは最初から存在していなかった(ということになっている)。仮に、作中で〈鏡家〉関連の名詞が一切使われなかったとしても、『十神』という作品自体の構造はまったく影響を受けないだろう。わざわざ昔懐かしい名前を登場させたのは、単に佐藤先生のサービス精神ゆえであり、空気の読めなさゆえである。
とはいえ〈鏡家〉と『十神』の間にいくらかの相似を発見するのはそう難しいことではない。たとえば十神忍というキャラクターは、様々な属性が付加されているけれども、基本的には公彦くんである。稜子姉さんから腐川的メンタリティを除外すれば十神白夜的なものを取り出すことができるだろう。鏡家総出演の中で二人が登場しないのも、そうした事情が絡んでいそうだ。しかもどちらも血の繋がらない姉弟なのだ! 確かに二人の関係はそれぞれ逆転してはいるけれど、細かいことを気にしていては話が進まないし、薬を盛られて悩んだり叫んだり乱れたり壊れたりする稜子姉さんというキュートな愛されキャラも悪くない趣向に思える。
テーマというのが適切かどうかは知らないが、『水没ピアノ』までの〈鏡家〉では、記憶に纏わるエトセトラがモチーフとして繰り返されてきた。アイデンティティは記憶によって保持される。人に歴史ありってことだ。少なくとも初期三部作に共通する要素として考えられるのは、記憶とアイデンティティの関係くらいしか見当たらないように思われる(新本格ミステリってなんですか?)。
砂絵ちゃんは、取り込んだ他者の記憶に押し潰されて自己を崩壊させる。コウちゃんは記憶を弄られることで自己認識が大幅に変容した。公彦くんの叙述トリックも、記憶の抑圧によって歪んだ世界認識を表現したものと言えなくもないような気がするぜ。
どちらかと言うと『十神』は『飛ぶ教室』や『青酸クリームソーダ』に近く、そのまま発展させたものとも見える。たとえ記憶がすべて偽物だったとしても、今の自分が何を信じ、何を選択するかが重要なのだ! みたいな。要するに、「実存は本質に先行する」(面倒臭いことに『十神』では「実存」が「本質」の意味で使われている)。陳腐であるにしても立派な処世訓ではある。まあ星海社だしそのくらいが適当なのかも。
処世訓といえば、「物語と人生は別物。小説にかまけてないで現実に帰れ」という主張が主人公の口から発せられる。過去の佐藤作品と対立するように感じられる意見だが(ついでに言っておくとめっちゃ笑える)、これは作者自身の思想とその変節を表しているというよりも、そのときどきのムードに従って衣裳を取り替えているものと考えた方が理解しやすい。どこまでが本音で、どこまでが建前か、一読者が区別することは難しいだろう。作者自身だって区別できてるかどうか怪しいもんだとも思う。また変なこと言いだしたなあ、くらいが適当な対応だろう。オッサンの説教風も似たようなもので、何れにせよ本気に受け取る必要はなさそうだ。
キャラクターやテーマを抜きにしても、『十神』が〈鏡家サーガ〉の延長線上にあることは間違いない。たとえば巻末の『参考文献』。ここに名前を並べたいがために引用したのではないかと邪推を働かせたくなる部分がいくつか見受けられる(ブルーハーブとか)。切り貼りのための切り貼りや元ネタの開示を成熟と見るか退行と呼ぶかは後世の判断に委ねたいが、とにかく、表層を一枚剥がせば、そこにあるのは三島賞作家佐藤友哉による至高のノベライズなどではなく、相変わらず空気が読めず、空回りしがちな、俺たちのユヤタンだということだ。ここに『十神』という小説の価値を見出すとなれば、〈鏡家サーガ〉と呼ぶことにも一面の正当性はあるだろう。
当面佐藤友哉フィーバーは続くようであるし、今はユヤタンの帰還を祝しピルスナー・ウルケルで乾杯するのも悪くはない。俺たちは大人になった。
まず第一に、〈鏡家〉っぽいキャラが出てくる。
第二に、〈鏡家〉っぽいテーマが扱われている。
第三に、ここがもっとも重要なのだが、著者がユヤタンである。
まあ〈鏡家サーガ〉そのものとは言えないまでも、その変奏として読んでも間違いではないだろうし、バチも当たらないだろうなといった感じ。
もちろん〈鏡家〉のキャラクターが登場したから〈鏡家サーガ〉ということにはならないし、そもそもそんなキャラクターは最初から存在していなかった(ということになっている)。仮に、作中で〈鏡家〉関連の名詞が一切使われなかったとしても、『十神』という作品自体の構造はまったく影響を受けないだろう。わざわざ昔懐かしい名前を登場させたのは、単に佐藤先生のサービス精神ゆえであり、空気の読めなさゆえである。
とはいえ〈鏡家〉と『十神』の間にいくらかの相似を発見するのはそう難しいことではない。たとえば十神忍というキャラクターは、様々な属性が付加されているけれども、基本的には公彦くんである。稜子姉さんから腐川的メンタリティを除外すれば十神白夜的なものを取り出すことができるだろう。鏡家総出演の中で二人が登場しないのも、そうした事情が絡んでいそうだ。しかもどちらも血の繋がらない姉弟なのだ! 確かに二人の関係はそれぞれ逆転してはいるけれど、細かいことを気にしていては話が進まないし、薬を盛られて悩んだり叫んだり乱れたり壊れたりする稜子姉さんというキュートな愛されキャラも悪くない趣向に思える。
テーマというのが適切かどうかは知らないが、『水没ピアノ』までの〈鏡家〉では、記憶に纏わるエトセトラがモチーフとして繰り返されてきた。アイデンティティは記憶によって保持される。人に歴史ありってことだ。少なくとも初期三部作に共通する要素として考えられるのは、記憶とアイデンティティの関係くらいしか見当たらないように思われる(新本格ミステリってなんですか?)。
砂絵ちゃんは、取り込んだ他者の記憶に押し潰されて自己を崩壊させる。コウちゃんは記憶を弄られることで自己認識が大幅に変容した。公彦くんの叙述トリックも、記憶の抑圧によって歪んだ世界認識を表現したものと言えなくもないような気がするぜ。
どちらかと言うと『十神』は『飛ぶ教室』や『青酸クリームソーダ』に近く、そのまま発展させたものとも見える。たとえ記憶がすべて偽物だったとしても、今の自分が何を信じ、何を選択するかが重要なのだ! みたいな。要するに、「実存は本質に先行する」(面倒臭いことに『十神』では「実存」が「本質」の意味で使われている)。陳腐であるにしても立派な処世訓ではある。まあ星海社だしそのくらいが適当なのかも。
処世訓といえば、「物語と人生は別物。小説にかまけてないで現実に帰れ」という主張が主人公の口から発せられる。過去の佐藤作品と対立するように感じられる意見だが(ついでに言っておくとめっちゃ笑える)、これは作者自身の思想とその変節を表しているというよりも、そのときどきのムードに従って衣裳を取り替えているものと考えた方が理解しやすい。どこまでが本音で、どこまでが建前か、一読者が区別することは難しいだろう。作者自身だって区別できてるかどうか怪しいもんだとも思う。また変なこと言いだしたなあ、くらいが適当な対応だろう。オッサンの説教風も似たようなもので、何れにせよ本気に受け取る必要はなさそうだ。
キャラクターやテーマを抜きにしても、『十神』が〈鏡家サーガ〉の延長線上にあることは間違いない。たとえば巻末の『参考文献』。ここに名前を並べたいがために引用したのではないかと邪推を働かせたくなる部分がいくつか見受けられる(ブルーハーブとか)。切り貼りのための切り貼りや元ネタの開示を成熟と見るか退行と呼ぶかは後世の判断に委ねたいが、とにかく、表層を一枚剥がせば、そこにあるのは三島賞作家佐藤友哉による至高のノベライズなどではなく、相変わらず空気が読めず、空回りしがちな、俺たちのユヤタンだということだ。ここに『十神』という小説の価値を見出すとなれば、〈鏡家サーガ〉と呼ぶことにも一面の正当性はあるだろう。
当面佐藤友哉フィーバーは続くようであるし、今はユヤタンの帰還を祝しピルスナー・ウルケルで乾杯するのも悪くはない。俺たちは大人になった。
August 24, 2016
劇場版『ハーモニー』
原作の小説も大して面白いわけではないし、映画になると聞いてもそこまで期待もしていなかった。予告を見てもまったく良い印象がない。そんなわけで今回、つまらない映画を「ひでー」とか言って笑いながら見よう、という腹づもりだった。
だが、そのつまらなさは想像をはるかに凌ぐものであった。まさに驚愕。見終えた直後は、二時間もある作品を完成させて偉い、というくらいしか褒める言葉も思い浮かばず(今ではそんなことはない)、何でも面白がることをモットーとする僕への挑戦かとも思わせるほどのものだ。
何といってもまずは脚本。どんな映画にも何かしら魅力的な部分はあるものだし、実際あったのだけど、そうしたところをすべて塗りつぶすほどの力がこの脚本にはあった。本当にすごい。
恋愛ドラマ的解釈については好き嫌いの分かれるところだろうけど、どうせやるのなら振り切るべきだったと思う。恋する人間が設定を長々と語っていてはいけない。
本作品のプロデューサーの名が脚本としてクレジットされている。おそらくは上がってきた脚本にあちこち口を挟み続けた結果のこの名義なのだろう。脚本のあまりの出来の悪さに経歴に傷のつくことを恐れた担当者が辞退を申し出たとも考えられるが、これは少々意地の悪い見方に違いない。
このプロデューサーは確か、単なるオタク向け作品ではなく一般の観客を意識したアニメ作りを標榜していたはずで、欠陥と見える部分の多くもそのための配慮だと考えれば腑に落ちるものだ。一般の観客を何だと思ってるんだ、という良い見本である。
時間も予算も人員も不足する中で、上がってきた脚本がこれでは4℃もとんだ貧乏籤を掴まされたものだ。凝った絵作りや丁寧な作り込みをしている様子も窺えて、そこここに見られるやっつけ仕事感というのも苦闘の痕跡とも受け取れる。もったいない気もするが、考えようによってはこれはこれで味わい深い。
といった風に色々と考えてみたところ、初見時に感じたつまらなさというのも、それほど深刻なものというわけではないように思えてきた。原作を読んでいなければ、それなりに楽しめたのかも知れない。次からは「ひでー」とか言いながら笑って見られそうだ。何事も考えてみるものだ。
あとはまあ完璧に個人的な好みに基づく感想になるけど、キャラクターやコスチューム、メカニックなどのデザインが見ていて結構つらかった。〈大災禍(だいさいか)〉を経て成立した、現代とは異なる価値体系で動く近未来社会も、原作の良さを活かしきれていなかったように思う。場合によっては怒っても良いかな、といったところ。ドックアイコンに指で触れて操作するARは良かったですね。
書いてる内にふと思ったのだけど、大量の説明台詞、恋愛ドラマへの落とし込み、頓珍漢な未来社会の描写などの、いわゆる「一般の観客」を想定した様々な配慮というものは、主人公らが作中で嫌悪していた「優しい社会」と同質のものなのではないだろうか。そうだとすると、この『ハーモニー』という作品は単なる映像作品ではなく、彼女らの感じていた息苦しさを追体験させるというコンセプトから制作されたクリティカルな作品であるということが考えられはしないし無理があるな。
だが、そのつまらなさは想像をはるかに凌ぐものであった。まさに驚愕。見終えた直後は、二時間もある作品を完成させて偉い、というくらいしか褒める言葉も思い浮かばず(今ではそんなことはない)、何でも面白がることをモットーとする僕への挑戦かとも思わせるほどのものだ。
何といってもまずは脚本。どんな映画にも何かしら魅力的な部分はあるものだし、実際あったのだけど、そうしたところをすべて塗りつぶすほどの力がこの脚本にはあった。本当にすごい。
恋愛ドラマ的解釈については好き嫌いの分かれるところだろうけど、どうせやるのなら振り切るべきだったと思う。恋する人間が設定を長々と語っていてはいけない。
本作品のプロデューサーの名が脚本としてクレジットされている。おそらくは上がってきた脚本にあちこち口を挟み続けた結果のこの名義なのだろう。脚本のあまりの出来の悪さに経歴に傷のつくことを恐れた担当者が辞退を申し出たとも考えられるが、これは少々意地の悪い見方に違いない。
このプロデューサーは確か、単なるオタク向け作品ではなく一般の観客を意識したアニメ作りを標榜していたはずで、欠陥と見える部分の多くもそのための配慮だと考えれば腑に落ちるものだ。一般の観客を何だと思ってるんだ、という良い見本である。
時間も予算も人員も不足する中で、上がってきた脚本がこれでは4℃もとんだ貧乏籤を掴まされたものだ。凝った絵作りや丁寧な作り込みをしている様子も窺えて、そこここに見られるやっつけ仕事感というのも苦闘の痕跡とも受け取れる。もったいない気もするが、考えようによってはこれはこれで味わい深い。
といった風に色々と考えてみたところ、初見時に感じたつまらなさというのも、それほど深刻なものというわけではないように思えてきた。原作を読んでいなければ、それなりに楽しめたのかも知れない。次からは「ひでー」とか言いながら笑って見られそうだ。何事も考えてみるものだ。
あとはまあ完璧に個人的な好みに基づく感想になるけど、キャラクターやコスチューム、メカニックなどのデザインが見ていて結構つらかった。〈大災禍(だいさいか)〉を経て成立した、現代とは異なる価値体系で動く近未来社会も、原作の良さを活かしきれていなかったように思う。場合によっては怒っても良いかな、といったところ。ドックアイコンに指で触れて操作するARは良かったですね。
書いてる内にふと思ったのだけど、大量の説明台詞、恋愛ドラマへの落とし込み、頓珍漢な未来社会の描写などの、いわゆる「一般の観客」を想定した様々な配慮というものは、主人公らが作中で嫌悪していた「優しい社会」と同質のものなのではないだろうか。そうだとすると、この『ハーモニー』という作品は単なる映像作品ではなく、彼女らの感じていた息苦しさを追体験させるというコンセプトから制作されたクリティカルな作品であるということが考えられはしないし無理があるな。
August 18, 2016
『シン・ゴジラ』
特撮に対しそれほど熱意を持っているわけではないため大部分は見逃しているはずですが、それでも過去のゴジラ作品あるいは特撮映画から不自然な形で引用されている箇所が多数見受けられました。オマージュを捧げたいという気持ちは理解できないでもありませんし、知っているネタを見つければそれはそれで楽しいのですが、映画の統一性を乱さない程度の挿入に留めておいてもらいたいものです。
日本という国のあり方についてどうこうという部分もあまり感心できなかった部分です。USA万歳映画として知られる『インデペンデンス・デイ』ですら、ここまで露骨に自国をよいしょはしていません。希望も決意も取ってつけたような感触が拭いきれず、空々しく響きます。
そうした内輪向けの要素に目を瞑れば、かなり楽しめる映画ではあります。緻密に練られた脚本で、ハイテンポに話は進み、中弛みもなく、約120分間ほとんど飽きることはありません。CGもほとんどハリウッド版に引けを取らないレベルと考えます。予告編からかなり期待はしていましたが、ほとんどそれを上回っています。娯楽映画としても水準以上のものになっていると言って差し支えないでしょう。
ゴジラの出現という未曾有の事態に直面した日本国政府による対応は、どこまで現実に即しているかは判断しかねますが、かなり綿密な考証に基づいて(中略)こうして作り出された現実感によって、本来空想上の怪獣であるはずのゴジラという存在が、生々しいものとして迫ってきます。今回のゴジラは、これまで映像の中で暴れ回ってきた「自分たちのよく知っているあの怪獣」ではなく、目の前に突然現れた今まで見たことのない巨大で不気味な生き物です。怖いですね。恐ろしいですね。
決して手放しで絶賛はできませんが、これを観てゴジラゴジラとはしゃいでしまうのも無理からぬところかと思います。
日本という国のあり方についてどうこうという部分もあまり感心できなかった部分です。USA万歳映画として知られる『インデペンデンス・デイ』ですら、ここまで露骨に自国をよいしょはしていません。希望も決意も取ってつけたような感触が拭いきれず、空々しく響きます。
そうした内輪向けの要素に目を瞑れば、かなり楽しめる映画ではあります。緻密に練られた脚本で、ハイテンポに話は進み、中弛みもなく、約120分間ほとんど飽きることはありません。CGもほとんどハリウッド版に引けを取らないレベルと考えます。予告編からかなり期待はしていましたが、ほとんどそれを上回っています。娯楽映画としても水準以上のものになっていると言って差し支えないでしょう。
ゴジラの出現という未曾有の事態に直面した日本国政府による対応は、どこまで現実に即しているかは判断しかねますが、かなり綿密な考証に基づいて(中略)こうして作り出された現実感によって、本来空想上の怪獣であるはずのゴジラという存在が、生々しいものとして迫ってきます。今回のゴジラは、これまで映像の中で暴れ回ってきた「自分たちのよく知っているあの怪獣」ではなく、目の前に突然現れた今まで見たことのない巨大で不気味な生き物です。怖いですね。恐ろしいですね。
決して手放しで絶賛はできませんが、これを観てゴジラゴジラとはしゃいでしまうのも無理からぬところかと思います。
April 24, 2016
佐藤友哉読者のための『ダンガンロンパ十神(中)』
佐藤友哉の読者は佐藤友哉の裏切りに慣れすぎています。裏切られることを期待しすぎています。それがどんなやり方だったとしても、いちいち喜んでしまうのです。中には予想を超えた裏切りっぷりのためにブチ切れる人も出てきたりするわけですが、書く方はそういうことを折り込み済みであるに違いなく、読む方も大体はそういうのを求めて読むわけですから「またユヤタンがやらかした!」と拍手喝采を送るわけですね。作者と読者の幸せな予定調和ってやつです。
例えば『十神(上)』で頻出した過去の自作品のネタ化は、ついてきてくれている素晴らしき読者のためのサービスと考えられますが、オヤジギャグ以上のものではありません。鬱屈と怨嗟に満ちた自意識芸を支持されていたユヤタンが、そんな恥ずかしい振舞いを堂々とやってのけるオッサンに成り果ててしまったのです。裏切りです。冒瀆です。悲しむべきことです。『バックベアード』以来、幾度となく繰り返されている、いつもの佐藤友哉(大人)。もはや安定と安心の佐藤節と言えましょう。
上巻であれだけ盛り上げてくれた(やらかしてくれた)佐藤先生が、中巻では一体どんな期待外れを見せてくれるのだろうか、とページを開けば、前巻終盤にド派手な登場をキメた鏡姉妹が、開始時点で既に敗北しているという、いきなりの肩透かし。笑えます。
しかも、後半で明かされるその正体というのが『超高校級の軽音楽部』澪田唯吹と『超高校級の飼育委員』田中眼蛇夢。オリキャラの登場に不平を垂れるロンパファンへの対応だと思われますが、佐藤先生の大人げなさを感じぶるぶる震えてしまうのは僕だけでしょうか。何にせよ「そもそもダンガンロンパがどういう作風であったか」という問題提起を孕んだロンパファン読者への挑発とも取れる人選です。
「幸福な救済措置」だか何だか知りませんが、処理が雑ですし、直前の部分では長男まで追加登場させています。反省の色はまったく見えません。読者を舐めきっているかのような態度は、まさにユヤタンクオリティと呼べます。
中巻の目玉でもある『十神一族史上最大最悪事件』は、孤島の館を舞台に起きる連続殺人事件でした。佐藤友哉にとっては『鏡姉妹の動物会議』以来となる、久し振りの本格ミステリとなっています。ここでの「本格」の定義は、人によって様々ですが、ここでは『青酸』的な本格観を採用しています(よって『青酸』は本格ではありません)。真相を暴くのは読者ではなく名探偵の役目ってのは、割と本格っぽいですね。
一応本編と繋がりはするものの、ストーリーにはほとんど影響を及ぼしません。後々の仕込みにしたって、これほどボリュームを割くまでのことはないでしょう。半分以上使っちゃってますよ。
しかし、その内容はと言えば、ちょっと擁護することも難しいというか、ちょっとひどい。作者自ら叙述トリックの可能性を繰り返し示唆し、改名候補を見れば真相がどんなもんかは大体察しがつくというもの。
ダンガンロンパ世界には、『霧切』というミステリとしてもっと出来のいい先行作品がすでに存在しているわけですし、それと真正面から競合するような話を持ってくるのは、やや無謀とも言える挑戦です。初めて佐藤友哉(というか「本格ミステリ」というジャンル)に触れるロンパファンにとっては、単に出来の悪い推理小説もどきと映るんじゃないでしょうか。七村彗星の客演もその印象を強めることに貢献しているように感じます。
もともと、まともな推理小説を書けないことで有名な佐藤先生ですから、「推理小説をやる」というより、「出来の悪い推理小説みたいなことをやって読者をげんなりさせる」ことが目的だったと考える方が自然ではないでしょうか。まことに念の入った嫌がらせというやつです。
まあ、こういったことが言えるのも佐藤読者だからこそなわけですね。
『ベッドサイド〜』以来、伊藤計劃インスパイア系であることを隠そうともしない佐藤先生、いや、別に構わないんですけど、『十神』でも上巻から百科事典に「ボルヘス」の名を採用したり、ETMLを模したりと、捻りも何もない伊藤計劃フォロワーっぷりですね。さらに今回では、霧切さんらしき人による「『絶望小説』に実体は存在しない」という発言が飛び出し、ただでさえ『虐殺器官』っぽいのに、これで出てくるのが「虐殺の文法」(もしくはそれに準ずるもの)だったらどうしよう……と今から下巻の内容が気掛かりです。
などと思っていたら、突如現れ武力介入を始める世界保健機関(WHO)。どう考えても螺旋監察官なハーモニー性をブチ込んで来て、こんなパクリ許されてる状態怖え! 頭を抱えてしまいましたよ。
荒唐無稽でリアリティの欠如した世界。ミステリ要素も、アクションシーンも、キャラクターも、プロットも、言葉選びも、設定も。何もかもが、薄っぺらく嘘臭く雑でいい加減で、どこかで見たようなものばかり。ロンパファンがどう感じるのかはわかりませんが、普通に小説としてみた場合、こんなものを面白がれるのは佐藤友哉の愛読者くらいなのではないかなと思います。
いやだって、佐藤先生がそんな単につまんないだけの小説なんて書くわけないじゃないですか。
ついでに付け加えておくと、P.256 で十神の言う「うんざりするほど、お前たちの目の前を飛び回ってやる」って台詞。まず「北の本物」こと Tha Blue Herb の『孤憤』が元ネタと見て間違いありません。同じ北海道出身だし、ロキノンでも扱われてましたし。
原曲の該当箇所を参照してみると、「黙殺しようと思っても不可能だ。うんざりするくらい目の前を飛び回ってやる。テメエらの考えるほど、単純じゃねえんだ」なんですね。『十神』の本物論など関心はないけど、佐藤先生、煽りすぎでしょ。
例えば『十神(上)』で頻出した過去の自作品のネタ化は、ついてきてくれている素晴らしき読者のためのサービスと考えられますが、オヤジギャグ以上のものではありません。鬱屈と怨嗟に満ちた自意識芸を支持されていたユヤタンが、そんな恥ずかしい振舞いを堂々とやってのけるオッサンに成り果ててしまったのです。裏切りです。冒瀆です。悲しむべきことです。『バックベアード』以来、幾度となく繰り返されている、いつもの佐藤友哉(大人)。もはや安定と安心の佐藤節と言えましょう。
上巻であれだけ盛り上げてくれた(やらかしてくれた)佐藤先生が、中巻では一体どんな期待外れを見せてくれるのだろうか、とページを開けば、前巻終盤にド派手な登場をキメた鏡姉妹が、開始時点で既に敗北しているという、いきなりの肩透かし。笑えます。
しかも、後半で明かされるその正体というのが『超高校級の軽音楽部』澪田唯吹と『超高校級の飼育委員』田中眼蛇夢。オリキャラの登場に不平を垂れるロンパファンへの対応だと思われますが、佐藤先生の大人げなさを感じぶるぶる震えてしまうのは僕だけでしょうか。何にせよ「そもそもダンガンロンパがどういう作風であったか」という問題提起を孕んだロンパファン読者への挑発とも取れる人選です。
「幸福な救済措置」だか何だか知りませんが、処理が雑ですし、直前の部分では長男まで追加登場させています。反省の色はまったく見えません。読者を舐めきっているかのような態度は、まさにユヤタンクオリティと呼べます。
中巻の目玉でもある『十神一族史上最大最悪事件』は、孤島の館を舞台に起きる連続殺人事件でした。佐藤友哉にとっては『鏡姉妹の動物会議』以来となる、久し振りの本格ミステリとなっています。ここでの「本格」の定義は、人によって様々ですが、ここでは『青酸』的な本格観を採用しています(よって『青酸』は本格ではありません)。真相を暴くのは読者ではなく名探偵の役目ってのは、割と本格っぽいですね。
一応本編と繋がりはするものの、ストーリーにはほとんど影響を及ぼしません。後々の仕込みにしたって、これほどボリュームを割くまでのことはないでしょう。半分以上使っちゃってますよ。
しかし、その内容はと言えば、ちょっと擁護することも難しいというか、ちょっとひどい。作者自ら叙述トリックの可能性を繰り返し示唆し、改名候補を見れば真相がどんなもんかは大体察しがつくというもの。
ダンガンロンパ世界には、『霧切』というミステリとしてもっと出来のいい先行作品がすでに存在しているわけですし、それと真正面から競合するような話を持ってくるのは、やや無謀とも言える挑戦です。初めて佐藤友哉(というか「本格ミステリ」というジャンル)に触れるロンパファンにとっては、単に出来の悪い推理小説もどきと映るんじゃないでしょうか。七村彗星の客演もその印象を強めることに貢献しているように感じます。
もともと、まともな推理小説を書けないことで有名な佐藤先生ですから、「推理小説をやる」というより、「出来の悪い推理小説みたいなことをやって読者をげんなりさせる」ことが目的だったと考える方が自然ではないでしょうか。まことに念の入った嫌がらせというやつです。
まあ、こういったことが言えるのも佐藤読者だからこそなわけですね。
『ベッドサイド〜』以来、伊藤計劃インスパイア系であることを隠そうともしない佐藤先生、いや、別に構わないんですけど、『十神』でも上巻から百科事典に「ボルヘス」の名を採用したり、ETMLを模したりと、捻りも何もない伊藤計劃フォロワーっぷりですね。さらに今回では、霧切さんらしき人による「『絶望小説』に実体は存在しない」という発言が飛び出し、ただでさえ『虐殺器官』っぽいのに、これで出てくるのが「虐殺の文法」(もしくはそれに準ずるもの)だったらどうしよう……と今から下巻の内容が気掛かりです。
などと思っていたら、突如現れ武力介入を始める世界保健機関(WHO)。どう考えても螺旋監察官なハーモニー性をブチ込んで来て、こんなパクリ許されてる状態怖え! 頭を抱えてしまいましたよ。
荒唐無稽でリアリティの欠如した世界。ミステリ要素も、アクションシーンも、キャラクターも、プロットも、言葉選びも、設定も。何もかもが、薄っぺらく嘘臭く雑でいい加減で、どこかで見たようなものばかり。ロンパファンがどう感じるのかはわかりませんが、普通に小説としてみた場合、こんなものを面白がれるのは佐藤友哉の愛読者くらいなのではないかなと思います。
いやだって、佐藤先生がそんな単につまんないだけの小説なんて書くわけないじゃないですか。
ついでに付け加えておくと、P.256 で十神の言う「うんざりするほど、お前たちの目の前を飛び回ってやる」って台詞。まず「北の本物」こと Tha Blue Herb の『孤憤』が元ネタと見て間違いありません。同じ北海道出身だし、ロキノンでも扱われてましたし。
原曲の該当箇所を参照してみると、「黙殺しようと思っても不可能だ。うんざりするくらい目の前を飛び回ってやる。テメエらの考えるほど、単純じゃねえんだ」なんですね。『十神』の本物論など関心はないけど、佐藤先生、煽りすぎでしょ。
April 18, 2016
『ダンガンロンパ十神(中)』レビュー(短縮版)
前巻では軸がやや佐藤ファンへと傾斜していたのに対し、今回はダンガンロンパファンへと向いています。揺り戻しでしょうか。バランス感覚というやつかも知れません。原作を知らないために戸惑うところもありましたが、まあ何とかなるもんですね。佐藤先生通常営業です。ダンガンロンパのノベライズってことで、禍々しさよりもバカバカしさの配分が高くなってるんじゃないかなと思います。
予告通りなかなかに本格的で、メフィスト賞作家の本領発揮といったところです。いつも通りの馬鹿げた世界が待ち構えています。ただ、佐藤先生はミステリを書くのが嫌いなんでしょうか。向いてないんでしょうか。それとも書く気がないんでしょうか。中国人は登場しません。
ミステリパートを除けば大した展開は起こりませんし、大して話も進展しません(ウィキペディアの便利な使い方を学ぶことはできます)。やたらと設定が語られるところから見て、真っ当な下巻に向けた布石と取っても構わないでしょうか。
話自体にはあまり意外性や驚きは感じられませんでしたが、15年小説でメシを食ってる三十五歳の作家がこれやっていいんだ! という謎の感動はありました。佐藤先生は三島由紀夫に謝るべきかと思います。
予告通りなかなかに本格的で、メフィスト賞作家の本領発揮といったところです。いつも通りの馬鹿げた世界が待ち構えています。ただ、佐藤先生はミステリを書くのが嫌いなんでしょうか。向いてないんでしょうか。それとも書く気がないんでしょうか。中国人は登場しません。
ミステリパートを除けば大した展開は起こりませんし、大して話も進展しません(ウィキペディアの便利な使い方を学ぶことはできます)。やたらと設定が語られるところから見て、真っ当な下巻に向けた布石と取っても構わないでしょうか。
話自体にはあまり意外性や驚きは感じられませんでしたが、15年小説でメシを食ってる三十五歳の作家がこれやっていいんだ! という謎の感動はありました。佐藤先生は三島由紀夫に謝るべきかと思います。
December 22, 2015
『クリスマス・テロル』の文体論
重要なのはスピードだ。BPMやMPHなどといった明確かつ客観的な単位は存在しないにしても、速度の概念は文章にも通用する。
改行ばかりで読み終えるまでに掛かる時間が短いとか、改行がほとんどなかったり漢字が多いせいで見た感じ密度が高いとかそういった物理的な意味合いは含まない。また、ただ話の展開が速いというだけのことであれば、それは単調さと直結し、単調さとはすなわち停滞の徴候だ。文章の速さとは文体の速さである。
説明を省き、描写を間引き、プロットを切り詰め、テクストを圧縮し、読者に対し不親切なことは認めざるを得ないにしても、『クリスマス・テロル』は限界まで飛ばす。速度を上げた結果理解できるのは書いた本人だけ、なんてことになれば読めたものではないし、粗筋をなぞるだけの無味乾燥な文章の羅列ともなれば目も当てられないが、そこは匙加減。独り善がりや脱線と思える部分もままあるとして、それでも作者は手綱を失ってはいない。地の文全体に撒き散らされる口語表現、比喩の用をなしていない比喩、微妙に意味のずれた語句、不自然に介入する作者の声。一見余計なように見えるこれらの要素により可読性が若干損なわれてはいるが、要するに優先順位の問題だ。もともと文章の中に異物感を内在させる点こそが佐藤文体の躓きの石であり、同時に武器でもある。その特徴を一つ一つ挙げていけば読者を観察者ないし傍観者の立場へと追いやる欠点でしかないのだが、組み合わさることで奇跡的とも言える効果を挙げている。不可避的に発生する異物感は登場人物への共感、物語への没入を阻害すると同時に生じる抑揚から導き出されるグルーヴィーかつハイテンションなジェットコースターリーディング。
お世辞にも佐藤友哉を美文家とは呼べないし、呼ぶ必然性もない。どちらかと言えば悪文家の範疇に入るだろう。けれどもこの試論で追求されるのは文章の美しさではないし、ましてや読みやすさや入り込みやすさなどといったものでもない。焦点はその文体に絞られ、また悪文にも文体は存在する。文体自体の持ち得る速さ。その点において一つの限界に最も近づいた小説、それが『クリスマス・テロル』である。
改行ばかりで読み終えるまでに掛かる時間が短いとか、改行がほとんどなかったり漢字が多いせいで見た感じ密度が高いとかそういった物理的な意味合いは含まない。また、ただ話の展開が速いというだけのことであれば、それは単調さと直結し、単調さとはすなわち停滞の徴候だ。文章の速さとは文体の速さである。
説明を省き、描写を間引き、プロットを切り詰め、テクストを圧縮し、読者に対し不親切なことは認めざるを得ないにしても、『クリスマス・テロル』は限界まで飛ばす。速度を上げた結果理解できるのは書いた本人だけ、なんてことになれば読めたものではないし、粗筋をなぞるだけの無味乾燥な文章の羅列ともなれば目も当てられないが、そこは匙加減。独り善がりや脱線と思える部分もままあるとして、それでも作者は手綱を失ってはいない。地の文全体に撒き散らされる口語表現、比喩の用をなしていない比喩、微妙に意味のずれた語句、不自然に介入する作者の声。一見余計なように見えるこれらの要素により可読性が若干損なわれてはいるが、要するに優先順位の問題だ。もともと文章の中に異物感を内在させる点こそが佐藤文体の躓きの石であり、同時に武器でもある。その特徴を一つ一つ挙げていけば読者を観察者ないし傍観者の立場へと追いやる欠点でしかないのだが、組み合わさることで奇跡的とも言える効果を挙げている。不可避的に発生する異物感は登場人物への共感、物語への没入を阻害すると同時に生じる抑揚から導き出されるグルーヴィーかつハイテンションなジェットコースターリーディング。
お世辞にも佐藤友哉を美文家とは呼べないし、呼ぶ必然性もない。どちらかと言えば悪文家の範疇に入るだろう。けれどもこの試論で追求されるのは文章の美しさではないし、ましてや読みやすさや入り込みやすさなどといったものでもない。焦点はその文体に絞られ、また悪文にも文体は存在する。文体自体の持ち得る速さ。その点において一つの限界に最も近づいた小説、それが『クリスマス・テロル』である。
December 11, 2015
伊藤計劃インスパイア系として読む『ダンガンロンパ十神』
佐藤友哉『ダンガンロンパ十神』
本テキストを書くにあたり、次の筆記システムを使用した。
k2k-system ver2.3
混物。偽物。紛物。写本の写本がはびこる世界で、よく耐えていると思う。システムの堅牢さと生真面目さには舌を巻くしかない。
そんなわけなので、僕の仕事といえば、ちょっとした添削くらいだ。身のほどはわきまえている。古英語詩を台無しにした筆者僧どもの仲間入りをする気はない。
はじまり(オリジン)の魂に幸あれ。
あるとすればの話だが。
伊藤計劃『From the Nothing, With Love』
例えるなら私は書物だ。いまこうして生起しつつあるテクストだ。(略)だから、これから書かれる文章がいささか皮肉めいていて、あるいは感傷的に見えたとしても、そこにはいかなる内面もない。そう解釈できる、純粋な出力があるだけだ。
そのうえでこう言わせて欲しい。
私の魂に安らぎあれ、と。
『ダンガンロンパ十神』での「人類史上最大最悪の絶望的事件」は『ハーモニー』、『虐殺器官』における〈大災禍(ザ・メイルストロム)〉と重ね合わされている。それも恐らく意識的に。「虐殺言語」が「絶望小説」に置き換わっただけで、これもう『虐殺器官』の二次創作でいいんじゃないかってレベル。『ベッドサイド・マーダーケース』の前例もあるし、佐藤友哉自身伊藤計劃への信奉を公言してるし。
さすがに文中にタグは使われていないが、オン/オフラインの参照情報を提示する「ボルヘス」は、ETMLの dictionary タグと同じ役割を果たしている。名称はもちろん『ハーモニー』の「全書籍図書館(ボルヘス)」から。目を疑ったのはアメリカ開拓時代の奴隷を例にとった「噛み噛み」部分。多少手を加えてはいるものの、そのまま『ハーモニー』の引き写し。いかに切り貼り作家の定評を持つとはいえ少なくともこういう書き方はしないはずだったと思うのだけど。
繰り返して現れる明らさまな模倣には、そこに何らかの意図が含まれていると考えるべきだろう。したがって『ダンガンロンパ十神』を解読するには伊藤計劃の諸作を前提する必要があるように感じられる。
執筆に用いられた k2k-system は実在するものではないらしく、どうやら架空のシステムのようだ(ググってみたところ、EメールとFAXをやり取りするサービスやニュートリノが質量を持つことを証明した実験などがヒットした。まあ、そういう方面から深読みを進めるのも面白そうなんだけど、無闇と深読みの泥沼に嵌まるのは現時点では見合わせておきたい)。とりあえず、前書きの「僕」と著者である佐藤友哉は区別されるべきだということは確実。ただそうすると終盤に挿入される「作者の言葉」が宙ぶらりんになってしまうという難点もあるのだが、単にこれを佐藤友哉の悪ふざけにすべてを帰すのはいかがなものか。本を開いたところからフィクションは始まっている。「僕」が佐藤友哉ではなく「僕」であること。「ここではとんでもない詐術が働いている」のだ。
前書きが校正者に過ぎない「僕」によるものであるということは、『十神』に先行する「原典」の存在が予想される。恐らく「はじまり(オリジン)」という言葉はその原典の「著者」を指すものだろう。これは物語の語り手『青インク』だと考えていいと思う。ていうか他に適当な人物が見当たらない。
『青インク』=十神忍。十神白夜の所有物であり、その存在理由は十神白夜の伝記の執筆。まさしく原典の著者としてうってつけの人物像。だが『ダンガンロンパ十神』はどう読んでも十神白夜の伝記ではない。しかも『ダンガンロンパ十神』は、一般的な一人称小説のように摩訶不思議な作用で語り手の心理を文章として紙面に定着させたものではなく、一種の写本なのだ。
じゃあ、はじまりって一体誰なのよ。原典って一体何なのよ。
伊藤計劃の『ハーモニー』は霧慧トァンの一人称で語られている。しかしこの物語が記述された時代、人類は意識を消失しシステムの中に溶け合っている状態にある。この時点ではトァンという個人はもはや存在しない。つまり、『ハーモニー』はトァン個人の記憶ではなく、社会システムの語るトァン(という個体)の記録となっている。したがって『ハーモニー』は正確にはトァンによって書かれたものではなく、せいぜい「かつて霧慧トァンであった個体」によって書かれたものだとしか言えないのである。
短編『From the Nothing, With Love』の語り手は、「原典」と呼ばれる人格を脳に上書きされた人間だ。彼は自己を「写本」と規定し、原典の記憶、思考、振る舞いを継続することによってその存在を維持している。ここで「原典」に振られたルビは「オリジナル」。ちなみに彼は女王陛下の所有物であり、「所有物」には「プロパティ」のルビが付く。
『十神』がその構造を上記二作品に負っているならば、語り手と書き手の同一性を自明視することはできない。『ダンガンロンパ十神』の著者は十神忍(オリジナル)ではなく「十神忍の記憶を引き継いだ何か」ということになるだろう。
あるとすればだが。
というわけで、前書きから引き出される疑問は以下のようなものになる。
『ダンガンロンパ十神』に原典は存在するのか。
十神忍にオリジナルは存在するのか。
青インクに魂は存在するのか。
かつて『エナメル』で「魂なんて存在しないのに」と言い放ったのは鏡稜子、オリジナルかどうかを問われ「どっちでも良いじゃん」と言い切ったのは『フリッカー式』の鏡佐奈である。
本テキストを書くにあたり、次の筆記システムを使用した。
k2k-system ver2.3
混物。偽物。紛物。写本の写本がはびこる世界で、よく耐えていると思う。システムの堅牢さと生真面目さには舌を巻くしかない。
そんなわけなので、僕の仕事といえば、ちょっとした添削くらいだ。身のほどはわきまえている。古英語詩を台無しにした筆者僧どもの仲間入りをする気はない。
はじまり(オリジン)の魂に幸あれ。
あるとすればの話だが。
伊藤計劃『From the Nothing, With Love』
例えるなら私は書物だ。いまこうして生起しつつあるテクストだ。(略)だから、これから書かれる文章がいささか皮肉めいていて、あるいは感傷的に見えたとしても、そこにはいかなる内面もない。そう解釈できる、純粋な出力があるだけだ。
そのうえでこう言わせて欲しい。
私の魂に安らぎあれ、と。
『ダンガンロンパ十神』での「人類史上最大最悪の絶望的事件」は『ハーモニー』、『虐殺器官』における〈大災禍(ザ・メイルストロム)〉と重ね合わされている。それも恐らく意識的に。「虐殺言語」が「絶望小説」に置き換わっただけで、これもう『虐殺器官』の二次創作でいいんじゃないかってレベル。『ベッドサイド・マーダーケース』の前例もあるし、佐藤友哉自身伊藤計劃への信奉を公言してるし。
さすがに文中にタグは使われていないが、オン/オフラインの参照情報を提示する「ボルヘス」は、ETMLの dictionary タグと同じ役割を果たしている。名称はもちろん『ハーモニー』の「全書籍図書館(ボルヘス)」から。目を疑ったのはアメリカ開拓時代の奴隷を例にとった「噛み噛み」部分。多少手を加えてはいるものの、そのまま『ハーモニー』の引き写し。いかに切り貼り作家の定評を持つとはいえ少なくともこういう書き方はしないはずだったと思うのだけど。
繰り返して現れる明らさまな模倣には、そこに何らかの意図が含まれていると考えるべきだろう。したがって『ダンガンロンパ十神』を解読するには伊藤計劃の諸作を前提する必要があるように感じられる。
執筆に用いられた k2k-system は実在するものではないらしく、どうやら架空のシステムのようだ(ググってみたところ、EメールとFAXをやり取りするサービスやニュートリノが質量を持つことを証明した実験などがヒットした。まあ、そういう方面から深読みを進めるのも面白そうなんだけど、無闇と深読みの泥沼に嵌まるのは現時点では見合わせておきたい)。とりあえず、前書きの「僕」と著者である佐藤友哉は区別されるべきだということは確実。ただそうすると終盤に挿入される「作者の言葉」が宙ぶらりんになってしまうという難点もあるのだが、単にこれを佐藤友哉の悪ふざけにすべてを帰すのはいかがなものか。本を開いたところからフィクションは始まっている。「僕」が佐藤友哉ではなく「僕」であること。「ここではとんでもない詐術が働いている」のだ。
前書きが校正者に過ぎない「僕」によるものであるということは、『十神』に先行する「原典」の存在が予想される。恐らく「はじまり(オリジン)」という言葉はその原典の「著者」を指すものだろう。これは物語の語り手『青インク』だと考えていいと思う。ていうか他に適当な人物が見当たらない。
『青インク』=十神忍。十神白夜の所有物であり、その存在理由は十神白夜の伝記の執筆。まさしく原典の著者としてうってつけの人物像。だが『ダンガンロンパ十神』はどう読んでも十神白夜の伝記ではない。しかも『ダンガンロンパ十神』は、一般的な一人称小説のように摩訶不思議な作用で語り手の心理を文章として紙面に定着させたものではなく、一種の写本なのだ。
じゃあ、はじまりって一体誰なのよ。原典って一体何なのよ。
伊藤計劃の『ハーモニー』は霧慧トァンの一人称で語られている。しかしこの物語が記述された時代、人類は意識を消失しシステムの中に溶け合っている状態にある。この時点ではトァンという個人はもはや存在しない。つまり、『ハーモニー』はトァン個人の記憶ではなく、社会システムの語るトァン(という個体)の記録となっている。したがって『ハーモニー』は正確にはトァンによって書かれたものではなく、せいぜい「かつて霧慧トァンであった個体」によって書かれたものだとしか言えないのである。
短編『From the Nothing, With Love』の語り手は、「原典」と呼ばれる人格を脳に上書きされた人間だ。彼は自己を「写本」と規定し、原典の記憶、思考、振る舞いを継続することによってその存在を維持している。ここで「原典」に振られたルビは「オリジナル」。ちなみに彼は女王陛下の所有物であり、「所有物」には「プロパティ」のルビが付く。
『十神』がその構造を上記二作品に負っているならば、語り手と書き手の同一性を自明視することはできない。『ダンガンロンパ十神』の著者は十神忍(オリジナル)ではなく「十神忍の記憶を引き継いだ何か」ということになるだろう。
あるとすればだが。
というわけで、前書きから引き出される疑問は以下のようなものになる。
『ダンガンロンパ十神』に原典は存在するのか。
十神忍にオリジナルは存在するのか。
青インクに魂は存在するのか。
かつて『エナメル』で「魂なんて存在しないのに」と言い放ったのは鏡稜子、オリジナルかどうかを問われ「どっちでも良いじゃん」と言い切ったのは『フリッカー式』の鏡佐奈である。
December 05, 2015
『ダンガンロンパ十神(上)』のレビュー
レビューで最も大切なのは「フェアであること」。作品に対してであれ、作者に対してであれ、自分自身に対してであれ。当然ながら人間と云うものは実に様々な価値観でもって物事を判断する。基準点を喪ってしまっている世界において公平に語ると云う事は私的に語る事でもある。いや、佐藤友哉の裏切りなんてものは、そりゃしょっちゅうなんだけど。
雑なキャラクター、雑なセッティング、雑なプロット、雑なナラティブ(ついでに云っておくと、「ですます調」で語る佐藤友哉が僕はあまり好きではない)。そうした印象は本作を読んでいる間、終始付き纏っていた。弁解のように聞こえるかも知れないが、個性溢れる登場人物達が破茶滅茶な状況の中で大活躍を繰り広げ壮絶な展開と手に汗握るアクションに満ちた冒険譚は、たとえ雑な作りであったとしてもただそれだけで充分に面白い。実際に本作『ダンガンロンパ十神(上)』は面白く読めた。良く出来たエンタメ小説だ。
だけどね。
「ネタとしては使い古されているけど、それに代わるもんがないから仕方なく使うとして……村上春樹の登場人物風に云うとすれば、やれやれって感じだね。あっ、ジョジョでも可か」
幾ら禁じ手を平然と踏み破るのがユヤタンクオリティだからと云って、超えてはいけない一線は(曲りなりにせよ)ある。これは『ダンガンロンパ』スピンオフなのであって、云ってみれば他所様の作品。そこはちゃんと区別しとこうよ、同人誌じゃないんだからさ。
「私は『絶望高校級のブラコン』鏡佐奈」
……って何だよ。親が聞いたら泣くぞ。
「……私は『絶望高校級の二重人格』鏡那緒美」
お前まだ中学生だろうが。
もやもやした頭を抱えながら(上巻了)の文字を見て本を閉じる事になる。ところが時間が経つに従い、いやこれは傑作だとしか云えなくなってくるのだ。
この『ダンガンロンパ十神(上)』は、『ダンガンロンパ』シリーズのスピンオフ作品でありノベライズ。当たり前の事ながら想定される読者には「小説の愛好家」「佐藤友哉の読者」だけではなく「『ダンガンロンパ』のファン」も含まれる。主な読者層はそちらの方なのかも知れないね。
ゲームをやっていないので確言は出来ないけれど、致命的な破綻も崩壊はなく「ノベライズ」の観点からすれば成功している部類に入るだろう。勿論、一般性にはちょっと程遠い世界ではあるにしても読者を喰いつかせるための餌、サービス精神、大衆性は充分に持ち合わせている。ざっと検索してみたところ「思ってたキャラと違う」とか「文章が稚拙」とか「オリキャラが不快」とか「作者が地の文で愚痴ってる」等々、小説と云う創作ジャンル(しかも二次創作)にあっては不可避な非難(難癖とも云う)以上の否定的意見は見受けられなかった。肝心の十神ファンの反応も概ね好ましいもののように思える。スペックは絶望的に低いが、そんなものに価値を見出すのは依頼された原稿を要求に応じ着実に書き上げるプロの仕事を理解出来ない思い上がった素人だけだ。少なくとも及第点には達していると見て良い。
ところがこれを佐藤友哉読者の観点から読むとなると、本作はもう本当にやりたい放題やっている様にしか思えない。既存の作品やサブカルチャー(笑)からの借用、流用、転用、引用は、最早佐藤友哉の十八番、御家芸、代名詞。はいはい想定内想定内。メタ発言はオタクとして当然の嗜みだよね。〈鏡家サーガ〉時代からの読者は、懐かしさを感じるか馬鹿にされたと感じるか、或いはその両方を感じて狼狽えるだろう(僕はそうだった)。過去にやったネタの再利用、キャラクターや文章自体の切り貼りは若かりし頃の自分と読者を嗤う恥ずかしい大人に成り下がったオッサン佐藤友哉の姿を予期させ、醜い姿を晒しながら往年のヒット曲を演奏する雑な再結成バンドと同じ嘘臭さを感じさせる(まあ、それはそれで盛り上がるんだけど)。佐藤友哉の性格の悪さを考えると嘘臭さそれ自体が嫌がらせを目的に書かれていると判断せざるを得ないし、こう云うのが好きなんでしょ? とニタニタ笑う顔も透けて見える。「鏡家を、青春の書を汚すな!」と大切にしているものを無造作にポンと出されてセンチメンタルな反応を返すのも当然と云えば当然だ。読者サービスと嫌がらせの一粒で二度美味しい技法である。おまけにユヤタン芸の再演は佐藤友哉(とその元ネタ)を知らない層には寧ろ「ロンパ的」な要素として好意的に受け止められているようで、ゲームの制作者がユヤタン(佐藤友哉)の愛読者を自認している事を考え合わせると佐藤読者としてはこの相互循環作用を俯瞰的に眺める事が出来て大変味わい深いものがある。
さて、最後まで読み終えてみると、こうした切り貼りが単なるアクセントやネタに留まらず冒頭から提示されていた作品のメタ構造と密接に関わり合っている事に気付く。目的の為には〈鏡家サーガ〉すらも道具として使い捨てる姿勢に古くからの読者としては複雑な思いがするけれど、その分効果的だと云う事は否定出来ない。終盤部分に挿入された『クリスマス・テロル』を再現するかのような作者の独白はネタとして大分寒いが作品に込められた佐藤友哉の本気ってものが窺い知れなくもない。
作品全体を見渡して得られるメタフィクション的構造は疑い深い読者の見当識を失わせ、目の前に広がる作品世界の位相を錯誤させる。羅列される架空の作家に夢野久作の名が混じり込んでいるのは恐らく意図的なものだろう。自分は『ダンガンロンパ』を読んでいるのか〈鏡家サーガ〉を読んでいるのか、それとも全く別の世界であるのか……。こうした眩惑的な仕掛けが、馬鹿馬鹿しい程に単純で明快な物語と両立しているのだ。凄い! 佐藤先生天才!
もう一つ。この作品にはキャラクターだけでなく、寧ろそれ以上にこれまで佐藤友哉が小説に書き続けてきたテーマが引き継がれている。暗黒青春小説の系譜に属する事は云うまでもないが、書くという行為への執着、無自覚な悪意、終わりなき青春の終わり、妹、牛、エトセトラエトセトラ。キャリア総決算と云った趣で、さすがに全部乗せって無茶にも程があるだろうと思わずにはいられないのだが不思議とこの割と短めの分量の中に収まっており、そればかりかちゃんと作品として成立している。それも他作品のノベライズでだ。小説家としての力量の為せる業である。凄い! 佐藤先生中堅作家!
結論。断言してしまうが、『ダンガンロンパ十神(上)』は現時点に於ける佐藤友哉の最高到達点である。「何も考えていないように見せかけておいて実は腹に一物あると勘繰らせるような行動をとりながら、実際はやっぱり何も考えちゃいない」と云う可能性も捨てきれないのだが、そうした場合にもやはり佐藤先生の天才ぶりが証明されるだけの結果となるので特に問題ないと思う。世界との戦いは続く。物語は残る。
雑なキャラクター、雑なセッティング、雑なプロット、雑なナラティブ(ついでに云っておくと、「ですます調」で語る佐藤友哉が僕はあまり好きではない)。そうした印象は本作を読んでいる間、終始付き纏っていた。弁解のように聞こえるかも知れないが、個性溢れる登場人物達が破茶滅茶な状況の中で大活躍を繰り広げ壮絶な展開と手に汗握るアクションに満ちた冒険譚は、たとえ雑な作りであったとしてもただそれだけで充分に面白い。実際に本作『ダンガンロンパ十神(上)』は面白く読めた。良く出来たエンタメ小説だ。
だけどね。
「ネタとしては使い古されているけど、それに代わるもんがないから仕方なく使うとして……村上春樹の登場人物風に云うとすれば、やれやれって感じだね。あっ、ジョジョでも可か」
幾ら禁じ手を平然と踏み破るのがユヤタンクオリティだからと云って、超えてはいけない一線は(曲りなりにせよ)ある。これは『ダンガンロンパ』スピンオフなのであって、云ってみれば他所様の作品。そこはちゃんと区別しとこうよ、同人誌じゃないんだからさ。
「私は『絶望高校級のブラコン』鏡佐奈」
……って何だよ。親が聞いたら泣くぞ。
「……私は『絶望高校級の二重人格』鏡那緒美」
お前まだ中学生だろうが。
もやもやした頭を抱えながら(上巻了)の文字を見て本を閉じる事になる。ところが時間が経つに従い、いやこれは傑作だとしか云えなくなってくるのだ。
この『ダンガンロンパ十神(上)』は、『ダンガンロンパ』シリーズのスピンオフ作品でありノベライズ。当たり前の事ながら想定される読者には「小説の愛好家」「佐藤友哉の読者」だけではなく「『ダンガンロンパ』のファン」も含まれる。主な読者層はそちらの方なのかも知れないね。
ゲームをやっていないので確言は出来ないけれど、致命的な破綻も崩壊はなく「ノベライズ」の観点からすれば成功している部類に入るだろう。勿論、一般性にはちょっと程遠い世界ではあるにしても読者を喰いつかせるための餌、サービス精神、大衆性は充分に持ち合わせている。ざっと検索してみたところ「思ってたキャラと違う」とか「文章が稚拙」とか「オリキャラが不快」とか「作者が地の文で愚痴ってる」等々、小説と云う創作ジャンル(しかも二次創作)にあっては不可避な非難(難癖とも云う)以上の否定的意見は見受けられなかった。肝心の十神ファンの反応も概ね好ましいもののように思える。スペックは絶望的に低いが、そんなものに価値を見出すのは依頼された原稿を要求に応じ着実に書き上げるプロの仕事を理解出来ない思い上がった素人だけだ。少なくとも及第点には達していると見て良い。
ところがこれを佐藤友哉読者の観点から読むとなると、本作はもう本当にやりたい放題やっている様にしか思えない。既存の作品やサブカルチャー(笑)からの借用、流用、転用、引用は、最早佐藤友哉の十八番、御家芸、代名詞。はいはい想定内想定内。メタ発言はオタクとして当然の嗜みだよね。〈鏡家サーガ〉時代からの読者は、懐かしさを感じるか馬鹿にされたと感じるか、或いはその両方を感じて狼狽えるだろう(僕はそうだった)。過去にやったネタの再利用、キャラクターや文章自体の切り貼りは若かりし頃の自分と読者を嗤う恥ずかしい大人に成り下がったオッサン佐藤友哉の姿を予期させ、醜い姿を晒しながら往年のヒット曲を演奏する雑な再結成バンドと同じ嘘臭さを感じさせる(まあ、それはそれで盛り上がるんだけど)。佐藤友哉の性格の悪さを考えると嘘臭さそれ自体が嫌がらせを目的に書かれていると判断せざるを得ないし、こう云うのが好きなんでしょ? とニタニタ笑う顔も透けて見える。「鏡家を、青春の書を汚すな!」と大切にしているものを無造作にポンと出されてセンチメンタルな反応を返すのも当然と云えば当然だ。読者サービスと嫌がらせの一粒で二度美味しい技法である。おまけにユヤタン芸の再演は佐藤友哉(とその元ネタ)を知らない層には寧ろ「ロンパ的」な要素として好意的に受け止められているようで、ゲームの制作者がユヤタン(佐藤友哉)の愛読者を自認している事を考え合わせると佐藤読者としてはこの相互循環作用を俯瞰的に眺める事が出来て大変味わい深いものがある。
さて、最後まで読み終えてみると、こうした切り貼りが単なるアクセントやネタに留まらず冒頭から提示されていた作品のメタ構造と密接に関わり合っている事に気付く。目的の為には〈鏡家サーガ〉すらも道具として使い捨てる姿勢に古くからの読者としては複雑な思いがするけれど、その分効果的だと云う事は否定出来ない。終盤部分に挿入された『クリスマス・テロル』を再現するかのような作者の独白はネタとして大分寒いが作品に込められた佐藤友哉の本気ってものが窺い知れなくもない。
作品全体を見渡して得られるメタフィクション的構造は疑い深い読者の見当識を失わせ、目の前に広がる作品世界の位相を錯誤させる。羅列される架空の作家に夢野久作の名が混じり込んでいるのは恐らく意図的なものだろう。自分は『ダンガンロンパ』を読んでいるのか〈鏡家サーガ〉を読んでいるのか、それとも全く別の世界であるのか……。こうした眩惑的な仕掛けが、馬鹿馬鹿しい程に単純で明快な物語と両立しているのだ。凄い! 佐藤先生天才!
もう一つ。この作品にはキャラクターだけでなく、寧ろそれ以上にこれまで佐藤友哉が小説に書き続けてきたテーマが引き継がれている。暗黒青春小説の系譜に属する事は云うまでもないが、書くという行為への執着、無自覚な悪意、終わりなき青春の終わり、妹、牛、エトセトラエトセトラ。キャリア総決算と云った趣で、さすがに全部乗せって無茶にも程があるだろうと思わずにはいられないのだが不思議とこの割と短めの分量の中に収まっており、そればかりかちゃんと作品として成立している。それも他作品のノベライズでだ。小説家としての力量の為せる業である。凄い! 佐藤先生中堅作家!
結論。断言してしまうが、『ダンガンロンパ十神(上)』は現時点に於ける佐藤友哉の最高到達点である。「何も考えていないように見せかけておいて実は腹に一物あると勘繰らせるような行動をとりながら、実際はやっぱり何も考えちゃいない」と云う可能性も捨てきれないのだが、そうした場合にもやはり佐藤先生の天才ぶりが証明されるだけの結果となるので特に問題ないと思う。世界との戦いは続く。物語は残る。
December 01, 2015
ダンガンロンパ十神(上)がとても笑えるという話
佐藤友哉作品では、打ちひしがれた野心と挫折した魂の持ち主が主人公兼語り手として据えられる場合が多くあります。読者は、主人公と作者たる佐藤友哉とを半ば同一視し、まあつまり私小説的に読まれる傾向が強いわけなんですが、今回もまたそんな語り手の登場です。
才能を信じ、才能に憧れながら、才能に恵まれず、そんなこんなで才能コンプレックスに苛まれ、今では田舎でモグラのように引き篭もり、希望から目を背ける生活を送っている「僕」。いつものというかいかにもな「オレたちのユヤタン」って感じがプンプンします。
例によって謎の美少女との邂逅を経て、不可解な事件に巻き込まれる「僕」……という、お定まりのこの展開ほど白けさせるものはありませんね、誰か改善してくれないと。
二人の前に立ち塞がり、『世界密室化計画』の名の下に連続殺人鬼や古今のミステリ小説を模倣しながらじゃんじゃん人を殺して回っているのが、希望ヶ峰学園付属中学校ミステリー研究会。そうです、これはダンガンロンパスピンオフだったのです。
若さゆえの暴走か、密室殺人に悦びを覚える変態どもだけど、「僕」からしてみると、そうしたアピールに余念のないところが才能ゼロ人間の才能ゼロたる所以なのだそうです。人の才能をああだこうだと論評する才能ゼロ人間の彼らは、佐藤友哉自身の読者層に近しいものを感じざるを得ません。だって、作者を悪し様に罵るのが好きですからね、佐藤友哉ファンという人達は。同じく才能ゼロ人間である「僕」は、こうした豚の悪口にひどく敏感なので、当然怒りをぶちまけますが、相手には通じません。ジェネレーションギャップでしょうか。
それから何やら色々あって、「僕」が己の無力さに茫然としていると、再び現れたミステリー研究会のメンバーが、絶望への招待状を差し出します。お前の絶望が見てみたい! のだそうです。この場合、構造としては「昔のように暗黒青春物語(あるいはその続き)を書いてよユヤタン!」と作者のファンが懇願するのと同値と言えましょう。砕けて言うと「鏡家サーガ書けやゴルァ!」というやつです。しかし、もうすぐ干支も三巡を迎えるいい大人の「僕」は、絶望を拒否することを選び、ベストエンディングを求め奔走します。さすがパパタン、毎日の幼稚園の送り迎えは伊達じゃありません。
ラストでついに「僕」は自ら封印していた記憶と人格を覚醒させることになるんですが、なんとその正体は、才能の塊であると同時に〈鏡家サーガ〉を引き継いだ存在、その名も元『超高校級の殺し屋』大槻涼彦だったのです! ベストエンディングどこ行った。
「言葉もありませんってか。ケッコーケッコー。あのときのオレ、っていうか『僕』という存在は、ぜんぶ嘘っぱち。もっともらしく聞こえた『僕』の苦悩や鬱屈は、オレが三分くらいで考えたインスタントなものにすぎなかったわけ。『僕』にイラついたやつも、『僕』に同情したやつも、『僕』に注文つけたやつも、ハ〜イご苦労様。お疲れちゃーん。楽しかったぁ? それより自分の人生をがんばれっつ〜の。ドハハハハハハハハハハ!」
暗黒青春小説〈鏡家サーガ〉の関係者が鮮やかにキメる絶望のちゃぶ台返し。そして「僕」もとい大槻は、ナイフでミス研をぶった斬ります。佐藤先生煽りすぎでしょ。笑うでしょ。
才能を信じ、才能に憧れながら、才能に恵まれず、そんなこんなで才能コンプレックスに苛まれ、今では田舎でモグラのように引き篭もり、希望から目を背ける生活を送っている「僕」。いつものというかいかにもな「オレたちのユヤタン」って感じがプンプンします。
例によって謎の美少女との邂逅を経て、不可解な事件に巻き込まれる「僕」……という、お定まりのこの展開ほど白けさせるものはありませんね、誰か改善してくれないと。
二人の前に立ち塞がり、『世界密室化計画』の名の下に連続殺人鬼や古今のミステリ小説を模倣しながらじゃんじゃん人を殺して回っているのが、希望ヶ峰学園付属中学校ミステリー研究会。そうです、これはダンガンロンパスピンオフだったのです。
若さゆえの暴走か、密室殺人に悦びを覚える変態どもだけど、「僕」からしてみると、そうしたアピールに余念のないところが才能ゼロ人間の才能ゼロたる所以なのだそうです。人の才能をああだこうだと論評する才能ゼロ人間の彼らは、佐藤友哉自身の読者層に近しいものを感じざるを得ません。だって、作者を悪し様に罵るのが好きですからね、佐藤友哉ファンという人達は。同じく才能ゼロ人間である「僕」は、こうした豚の悪口にひどく敏感なので、当然怒りをぶちまけますが、相手には通じません。ジェネレーションギャップでしょうか。
それから何やら色々あって、「僕」が己の無力さに茫然としていると、再び現れたミステリー研究会のメンバーが、絶望への招待状を差し出します。お前の絶望が見てみたい! のだそうです。この場合、構造としては「昔のように暗黒青春物語(あるいはその続き)を書いてよユヤタン!」と作者のファンが懇願するのと同値と言えましょう。砕けて言うと「鏡家サーガ書けやゴルァ!」というやつです。しかし、もうすぐ干支も三巡を迎えるいい大人の「僕」は、絶望を拒否することを選び、ベストエンディングを求め奔走します。さすがパパタン、毎日の幼稚園の送り迎えは伊達じゃありません。
ラストでついに「僕」は自ら封印していた記憶と人格を覚醒させることになるんですが、なんとその正体は、才能の塊であると同時に〈鏡家サーガ〉を引き継いだ存在、その名も元『超高校級の殺し屋』大槻涼彦だったのです! ベストエンディングどこ行った。
「言葉もありませんってか。ケッコーケッコー。あのときのオレ、っていうか『僕』という存在は、ぜんぶ嘘っぱち。もっともらしく聞こえた『僕』の苦悩や鬱屈は、オレが三分くらいで考えたインスタントなものにすぎなかったわけ。『僕』にイラついたやつも、『僕』に同情したやつも、『僕』に注文つけたやつも、ハ〜イご苦労様。お疲れちゃーん。楽しかったぁ? それより自分の人生をがんばれっつ〜の。ドハハハハハハハハハハ!」
暗黒青春小説〈鏡家サーガ〉の関係者が鮮やかにキメる絶望のちゃぶ台返し。そして「僕」もとい大槻は、ナイフでミス研をぶった斬ります。佐藤先生煽りすぎでしょ。笑うでしょ。
November 28, 2015
ダンガンロンパ十神(上)
佐藤友哉が『ダンガンロンパ』ノベライズに挑む! との報を受け、それが『逆転裁判』みたいなゲームだというくらいの知識しか持たず、その『逆転裁判』も裁判をするゲームだというくらいの知識しかなかった僕は、直ちに検索サイト大手グーグルを通じ、当該作品に関する情報収集を開始した。その過程をここに披瀝することは不要であるばかりか無用でもあると思われるため詳細は省くことにするが、端的に言えば「あまり期待できるものではない」ということ、これである。イロモノ臭、キワモノ感ばかりが漂い、まあそもそも出版元からして星海社。読む前からあらゆる希望が閉ざされていると考える他ない。
とは言え、新刊が出るとなれば興奮に胸高鳴らせ発売日を待ち、期待に胸膨らませて書店に殺到する以外の選択肢を持たないのがユヤタニアンの悲しむべきところ。一般的に、佐藤読者が佐藤作品に何を期待しているかといえば、雑なキャラクターが雑な目的意識のもと雑なプロットで雑な事件を雑に解決しながら雑な世界認識を雑な筆致でもって雑に描き出しているところ、というあたりで衆目の一致するところであろう。
この作品『十神』においてもその雑っぷりは期待の斜め上のさらに上を進みながら十全に発揮され、いやほんと佐藤先生雑すぎっしょ……と、暗澹たる心持ちかつ憤然たる面持ちでページを捲り続ける我が身を鑑みるに、情けなくも口惜しくもあらん……。などと思いながら読み進めてたのですが、「上巻了」の文字を見た途端、あら不思議、この上ない満足感に支配されている自分に気付いたのであります。
この小説が傑作か、或いは問題作かどうかはともかくとして、そういう意味では読んで良かったなあと思うし、そうは言っても、やっぱ続刊もあんまり期待しない方がいいよなって思いました。
August 29, 2015
八月二十九日
女に振られて生きるのが嫌になった、もう誰も信頼できない、死ぬ(大意)、とのツイートを最後にMくんが消息を絶ち、暦の上では今日で一年。死んだという決定的な証拠は未だなく、今もどこかで平穏な生活を送っている可能性もないとは言えず、今後のカムバックの希望も絶無というわけではない。ただ、そう楽観できる根拠もまたなく、丸一年の沈黙からしてやはり死んだものと判断するのが妥当だろう。
何件かの未遂という前例もある。自殺したといっても意外性がないばかりか当然の帰結のように思える。悲しいかというと別にそんなこともなく、どんな顔をすればいいかわからないの……くらいが実際のところ。自分には本当に感情がないのではないかと心配になってくる。
本人の言葉を信じるならば、「失恋を苦にしての自殺」。あまりにアホ臭く、その上安っぽすぎるきらいはあるものの、動機はいかにも明快。もっともらしい理由ではある。日頃の言動からすると、Mくんと付き合うのは面倒臭そうだなあ(そりゃ振られるわ)、という感想しか湧かず、同情の余地もあまりない。ただまあ、彼のようにクヨクヨ考えるたちの人間にとっては、このくらいわかりやすい理屈があった方が死ぬには都合がよかったりするのだろう。
僕とMくんの付き合いはわりと長かったので、自分も信頼できない人間に含まれていたのかと考えると少し気落ちするが、彼が死んだのにはやはり当日の僕の対応がまずかったせいもあるに違いなく、じゃあまあきっとそういうことなんだろう。やりとりを読み返すと僕の発言は本当に最悪そのもので、精神状態の不安定な人に対して言ってはいけないことばかり言っている。連絡が取れなくなった直後、逮捕されるのは嫌だなあとぼんやり思ったことを記憶している。起訴されたら確実に負ける。
死にたいやつは死ね。僕はずっとそう考えてきたし、いろんなところでそう言明してもきた。生きるのが苦痛でしかないなら、死は合理的かつ現実的な選択肢であり得る。結局死を決断するのは本人の意志なのであり、他人の苦痛を味わうことは誰にもできない。自殺の原因を外部に求めようとするのは自殺した人間に対する侮辱にほかならず、僕が自分を責めるのは傲慢である。人には死ぬ自由がある。友人がいなくなるというのは確かに寂しいものであるけれど、Mくんがこれ以上苦しみを嘗めずに済むというのならば、それはむしろ喜ばしい話だと言わなくてはならない。整合性は失われていない。責任逃れといえばそうかも知れない。死後の世界を信じない僕は冥福を祈らない。
何件かの未遂という前例もある。自殺したといっても意外性がないばかりか当然の帰結のように思える。悲しいかというと別にそんなこともなく、どんな顔をすればいいかわからないの……くらいが実際のところ。自分には本当に感情がないのではないかと心配になってくる。
本人の言葉を信じるならば、「失恋を苦にしての自殺」。あまりにアホ臭く、その上安っぽすぎるきらいはあるものの、動機はいかにも明快。もっともらしい理由ではある。日頃の言動からすると、Mくんと付き合うのは面倒臭そうだなあ(そりゃ振られるわ)、という感想しか湧かず、同情の余地もあまりない。ただまあ、彼のようにクヨクヨ考えるたちの人間にとっては、このくらいわかりやすい理屈があった方が死ぬには都合がよかったりするのだろう。
僕とMくんの付き合いはわりと長かったので、自分も信頼できない人間に含まれていたのかと考えると少し気落ちするが、彼が死んだのにはやはり当日の僕の対応がまずかったせいもあるに違いなく、じゃあまあきっとそういうことなんだろう。やりとりを読み返すと僕の発言は本当に最悪そのもので、精神状態の不安定な人に対して言ってはいけないことばかり言っている。連絡が取れなくなった直後、逮捕されるのは嫌だなあとぼんやり思ったことを記憶している。起訴されたら確実に負ける。
死にたいやつは死ね。僕はずっとそう考えてきたし、いろんなところでそう言明してもきた。生きるのが苦痛でしかないなら、死は合理的かつ現実的な選択肢であり得る。結局死を決断するのは本人の意志なのであり、他人の苦痛を味わうことは誰にもできない。自殺の原因を外部に求めようとするのは自殺した人間に対する侮辱にほかならず、僕が自分を責めるのは傲慢である。人には死ぬ自由がある。友人がいなくなるというのは確かに寂しいものであるけれど、Mくんがこれ以上苦しみを嘗めずに済むというのならば、それはむしろ喜ばしい話だと言わなくてはならない。整合性は失われていない。責任逃れといえばそうかも知れない。死後の世界を信じない僕は冥福を祈らない。
June 30, 2015
『絶歌』第一部
一読してわかるのは、書かれてないことが多すぎるってこと。犯行声明文など事件の核心とも思われるような部分もまるっと省略してたりするし、数え切れないほどあった前兆行動にもほとんど言及してない。えーと……猫殺しくらい?
こういったことは資料に当たればすぐにわかるわけで、本人としては隠しているつもりもないのかも知れないけれど、ともかくここには何かしらの意図があったと考えるべきだろう。
で、その意図は何かといろいろ考えてみたところ、書こうとした物語にそぐわないため割愛した、と見るのが妥当だという結論に達した。文中で物語を書きたかったと明言してるわけだし、特に無理な結論ではない。
現実は物語とは違い辻褄の合わないものなので、余さずありのまま書くとなるとどうしても不都合が出てくる。こういうのは触れずにおくに限る。ただ、自己分析の深化と解釈の変更ということで自分の供述に関する部分についてはがんがん改変できる。それは自分語りも多くなろうってなもんだ。
これまで事件の原因については少年Aの生い立ちや環境要因、精神分析的解釈が色々と主張されたりしてきた。A自身もそういう方面のことを勉強した節が見受けられる。けど、A本人の意志というものについては長い間心の闇(ブラックボックス)として見過ごされてきたし、本人もあまり気にしていなかったように思われる。何せ人より共感能力が低い。反省は行為(殺した)とその結果(死んだ)という対象に限られていて、言ってしまえば表層的なものに留まっていたわけだ。でもそれだけではちょっとうまいこといかなくなってきたもんだから、もっと根本的に自分の罪というものを捉え直そうと決めた三十歳。思春期の黒歴史なんて、いやあ自分でもどうしてあんなことしたのかわかんないっすねー、というのが普通の感覚だし、Aにとっても多分そんな感じだったと思われる。そんなことを言ってるわけにもいかないものだから、適当な物語を作り上げてこれを解決しようとした。物語の文脈で一つ一つの行動の意味は書き換えられ、行き当たりばったりの犯罪は意志と実存を賭けた一大事業へと変貌する。偶然の暴力から必然の殺人へ。いわゆる運命化というやつだ。
こうして元少年Aは謎に包まれていた少年Aの犯行の動機というものを明るみの下へ晒け出すことに成功した。そんなものは元から存在していなかったわけだけど、犯した罪の責任を自分のものとして感じるためには些細なことである。
こういったことは資料に当たればすぐにわかるわけで、本人としては隠しているつもりもないのかも知れないけれど、ともかくここには何かしらの意図があったと考えるべきだろう。
で、その意図は何かといろいろ考えてみたところ、書こうとした物語にそぐわないため割愛した、と見るのが妥当だという結論に達した。文中で物語を書きたかったと明言してるわけだし、特に無理な結論ではない。
現実は物語とは違い辻褄の合わないものなので、余さずありのまま書くとなるとどうしても不都合が出てくる。こういうのは触れずにおくに限る。ただ、自己分析の深化と解釈の変更ということで自分の供述に関する部分についてはがんがん改変できる。それは自分語りも多くなろうってなもんだ。
これまで事件の原因については少年Aの生い立ちや環境要因、精神分析的解釈が色々と主張されたりしてきた。A自身もそういう方面のことを勉強した節が見受けられる。けど、A本人の意志というものについては長い間心の闇(ブラックボックス)として見過ごされてきたし、本人もあまり気にしていなかったように思われる。何せ人より共感能力が低い。反省は行為(殺した)とその結果(死んだ)という対象に限られていて、言ってしまえば表層的なものに留まっていたわけだ。でもそれだけではちょっとうまいこといかなくなってきたもんだから、もっと根本的に自分の罪というものを捉え直そうと決めた三十歳。思春期の黒歴史なんて、いやあ自分でもどうしてあんなことしたのかわかんないっすねー、というのが普通の感覚だし、Aにとっても多分そんな感じだったと思われる。そんなことを言ってるわけにもいかないものだから、適当な物語を作り上げてこれを解決しようとした。物語の文脈で一つ一つの行動の意味は書き換えられ、行き当たりばったりの犯罪は意志と実存を賭けた一大事業へと変貌する。偶然の暴力から必然の殺人へ。いわゆる運命化というやつだ。
こうして元少年Aは謎に包まれていた少年Aの犯行の動機というものを明るみの下へ晒け出すことに成功した。そんなものは元から存在していなかったわけだけど、犯した罪の責任を自分のものとして感じるためには些細なことである。
March 29, 2015
『クリスマス・テロル』の「テロル」
2001年、佐藤友哉は『フリッカー式』で第二十一回メフィスト賞を受賞し推理小説作家としてデビューを果たす。翌年までに計三つの長編を発表するものの反響はゼロに等しく、売り上げは惨憺たる有様だった。続く新作を出せる見込みもなく作家として崖っぷちに立たされていた佐藤のもとへ最後のチャンスとして齎されたのが講談社ノベルス20周年記念企画「密室本」ーーいわゆる「密室」をテーマにした推理小説ーーの執筆依頼である。
それまでの作風のままでは売れないということは佐藤自身も理解していた。かと言って売れ線の推理小説を書くには技術も足りなければアイデアも湧かない。そこで、もう後のない佐藤先生が考え付いたのが「テロル」という手法だった。
ジャンル小説というものは作者と読者の間に一定の決まり事を要求するものであり、線引きは人それぞれであるにしても最低限のルールは保たれなければならない。当然ながらこの『クリスマス・テロル』という作品も推理小説としてのルールに忠実に則ったものだ。
絶海の孤島で起こる密室からの消失事件、奇病に侵された少女の謎の死、二つの事件に翻弄されながらも美少女探偵・小林冬子は真相へと辿り着く——まさに推理小説のオーソドックスなパターンを踏襲する、それまでに刊行された三作品に較べれば著しくスペックの低いあらすじと言えよう。設定や展開に多少無理が見られ先行作品から引き写した部分も少なくないにせよ常識的な範囲に収まる普通の推理小説である。目立った点といえば、話の途中で作者が語り手の立場を逸脱して物語とは関係のない話を繰り広げること。それとエピローグに当たる最終章を慣例にない「あとがき」に充てているというところ。あとはなんだろ……あれ、これくらい?
書き手が顔を覗かせる小説はそう珍しいものではない。古典推理小説でも読者への挑戦状とかやってたりするし(残念ながら未読ではあるが)。作家だって人間なので、あとがきを書きたくなることだってあるだろう。その辺りはあまりルール違反と責め立てるべきではないように思える。
では『クリスマス・テロル』における「テロル」の核心とも言うべき点はどこにあるかというと、物語の流れを断ち切りエピローグを廃してまで作者・佐藤友哉が語ろうとしたその内容にある。
簡単に言うと「あまりに自作が売れず作家を続けていられない」という泣き言だ。ただでさえ作者がしゃしゃって来て鬱陶しい小説だおいうのに、普通の推理小説を期待したーー何せ密室をテーマにした新本格推理小説という触れ込みだーー推理小説ファンにとっては興醒めも甚だしい。想像を絶する奇怪な事件、魅力溢れるキャラクター、秀逸なトリックに鮮やかな解決、あと世界観とか? 推理小説ファンが何を求めて誰も知らないような推理小説を読むのかはまあ人それぞれ色々事情があるのだろうが、少なくとも作者の愚痴を聞くためではないはずだ。話の途中で唐突に現れる作者が自分の無能を棚に上げ、小説が売れないのは怠慢な読者のせいだなどと駄々を捏ねるというのは私小説とかそういうのでやるものであって、推理小説とは話が違うのだ。いかに心の広い者といえどもこんなものを機嫌よく読了できるはずはない。実績のある御大ならまだしもひよっこ同然の新人作家に過ぎないのだ。単に下手糞なだけの作品であれば駄作の一言で無視するなり今後に期待するなりしとけば済む話だが、どう見たって推理小説というものを舐めきった態度でしかなく、言ってしまえば冒瀆である。出来不出来を云々する前に出版するレベルに達していない、読む価値はない、編集者は何をやっているのだ、金返せ! などと罵倒の声を上げたくなるのも人情というもので、実際一部で轟々と巻き起こった。
しかし好評も悪評も評判は評判。それまで黙殺され続けていた作者としては、そうした反応を惹起することこそが目的であった。今で言う炎上マーケティングである。果たして密室本『クリスマス・テロル』は狙い通り話題を集め、(比較的)売れる。佐藤友哉にとっては初の重版出来となり、過去の作品にも再版がかかる。他の出版社からも執筆の依頼が来はじめる。「テロル」によって作家としての延命に成功したわけである。
つまり、確かに「テロル」は作品のテーマと密接に関わり決して切り離せるものではないが、あくまで読者に手に取ってもらうためのきっかけに過ぎず、作品自体の面白さとはあまり関係がない。テーマというのはまあ書くことの孤独と不安、読む者と読まれる者の関係とかそういう感じだとして、それじゃあ『クリスマス・テロル』の面白さってのは一体何なのか、というのが本題として続くことになるわけなんだけれども長くなりそうだし面倒臭くなってきたから略するね。
それまでの作風のままでは売れないということは佐藤自身も理解していた。かと言って売れ線の推理小説を書くには技術も足りなければアイデアも湧かない。そこで、もう後のない佐藤先生が考え付いたのが「テロル」という手法だった。
ジャンル小説というものは作者と読者の間に一定の決まり事を要求するものであり、線引きは人それぞれであるにしても最低限のルールは保たれなければならない。当然ながらこの『クリスマス・テロル』という作品も推理小説としてのルールに忠実に則ったものだ。
絶海の孤島で起こる密室からの消失事件、奇病に侵された少女の謎の死、二つの事件に翻弄されながらも美少女探偵・小林冬子は真相へと辿り着く——まさに推理小説のオーソドックスなパターンを踏襲する、それまでに刊行された三作品に較べれば著しくスペックの低いあらすじと言えよう。設定や展開に多少無理が見られ先行作品から引き写した部分も少なくないにせよ常識的な範囲に収まる普通の推理小説である。目立った点といえば、話の途中で作者が語り手の立場を逸脱して物語とは関係のない話を繰り広げること。それとエピローグに当たる最終章を慣例にない「あとがき」に充てているというところ。あとはなんだろ……あれ、これくらい?
書き手が顔を覗かせる小説はそう珍しいものではない。古典推理小説でも読者への挑戦状とかやってたりするし(残念ながら未読ではあるが)。作家だって人間なので、あとがきを書きたくなることだってあるだろう。その辺りはあまりルール違反と責め立てるべきではないように思える。
では『クリスマス・テロル』における「テロル」の核心とも言うべき点はどこにあるかというと、物語の流れを断ち切りエピローグを廃してまで作者・佐藤友哉が語ろうとしたその内容にある。
簡単に言うと「あまりに自作が売れず作家を続けていられない」という泣き言だ。ただでさえ作者がしゃしゃって来て鬱陶しい小説だおいうのに、普通の推理小説を期待したーー何せ密室をテーマにした新本格推理小説という触れ込みだーー推理小説ファンにとっては興醒めも甚だしい。想像を絶する奇怪な事件、魅力溢れるキャラクター、秀逸なトリックに鮮やかな解決、あと世界観とか? 推理小説ファンが何を求めて誰も知らないような推理小説を読むのかはまあ人それぞれ色々事情があるのだろうが、少なくとも作者の愚痴を聞くためではないはずだ。話の途中で唐突に現れる作者が自分の無能を棚に上げ、小説が売れないのは怠慢な読者のせいだなどと駄々を捏ねるというのは私小説とかそういうのでやるものであって、推理小説とは話が違うのだ。いかに心の広い者といえどもこんなものを機嫌よく読了できるはずはない。実績のある御大ならまだしもひよっこ同然の新人作家に過ぎないのだ。単に下手糞なだけの作品であれば駄作の一言で無視するなり今後に期待するなりしとけば済む話だが、どう見たって推理小説というものを舐めきった態度でしかなく、言ってしまえば冒瀆である。出来不出来を云々する前に出版するレベルに達していない、読む価値はない、編集者は何をやっているのだ、金返せ! などと罵倒の声を上げたくなるのも人情というもので、実際一部で轟々と巻き起こった。
しかし好評も悪評も評判は評判。それまで黙殺され続けていた作者としては、そうした反応を惹起することこそが目的であった。今で言う炎上マーケティングである。果たして密室本『クリスマス・テロル』は狙い通り話題を集め、(比較的)売れる。佐藤友哉にとっては初の重版出来となり、過去の作品にも再版がかかる。他の出版社からも執筆の依頼が来はじめる。「テロル」によって作家としての延命に成功したわけである。
つまり、確かに「テロル」は作品のテーマと密接に関わり決して切り離せるものではないが、あくまで読者に手に取ってもらうためのきっかけに過ぎず、作品自体の面白さとはあまり関係がない。テーマというのはまあ書くことの孤独と不安、読む者と読まれる者の関係とかそういう感じだとして、それじゃあ『クリスマス・テロル』の面白さってのは一体何なのか、というのが本題として続くことになるわけなんだけれども長くなりそうだし面倒臭くなってきたから略するね。
March 22, 2015
佐藤友哉『ドグマ34』
佐藤友哉作品に親しんでいる読者にとって、神戸児童連続殺傷事件は馴染み深いものだろう。酒鬼薔薇聖斗こと少年A逮捕のニュースを知ったミナミ君はショックで自殺しちゃうし、土江田さんは本人からして元少年A。一般的にも、あの頃物心のついていた人間なら誰しも印象深く記憶しているはずだ。学校の校門に子供の生首を置くというのは当時としては斬新奇抜なアイデアだったし、その声明文はある意味衝撃的なものだった。この事件を引き起こした犯人が十四才の少年だったと報道されたときには、世間の騒然ぶりときたらそれは大変なものじゃった……(以下回想が続く)。
とはいえ、客観的に見れば実際に少年Aのやったことはしょうもなかった。英語駄目駄目だったし。それでも彼は自分の主張を社会に叩きつけ、何も考えずに生きている肉のカタマリみたいな人間たちを震撼させることには成功したわけで、まあ、人を刺したり猫を殺したのはマズかったが、そういう現実的な話ではなく、あくまでスタンスというか精神性的な面からのみ捉えるならば、あれはあれで立派な業績を上げたと言えなくもない。
事件から十七年が過ぎ、少年Aも今では元少年Aどころか立派なアラサーだ。ユヤタン(笑)自身もとうに三十四才となり、マイホームでお父さんマシーンに従事するなど社会に順応しきっているらしい。作者と同い年であり、脂肪としがらみと面の皮を身に付けたこの作品の語り手も、現実を飼い馴らしながら日々を過ごしている。とは言っても、理解の及ばぬ事柄を既知の物語に押し込めわかったような口を利く大人たちの不誠実さに嫌悪を感じるくらいにはまだまだ青いままで、だから事件の舞台を訪れ少年Aの足どりを辿るツアーに参加するという行為は、僕らが嘲笑っていた醜い大人に自分自身がなったことで過去の自分から逆襲を受けるというのに等しい。さらに皮肉なことに、それについて恥じ入ることすらできないというのだ。だって大人だから。それはもう爆笑するしかない。大人になりきれないまま大人の役目を果たし続ける自分自身への違和感や困惑などというものを「大人らしさ」とは呼びにくいものではあるが、現実とはそういうものなのかも知れない、と大人の僕は考えたりもする。
一方、途中から太田さんっぽい人と入れ替わって登場した謎の美少女は、当時の少年Aと同じく十四才。彼女にとって少年Aというのは等身大のキャラクターというやつで、自己の鏡像であると同時に一個のロールモデルでもある。軽薄で窮屈で偽善的な社会に敵意を向けるのは、今も昔も少年少女の仕事だ。僕にとっては遠く過ぎ去った季節であり、世界との戦いに子持ちのおっさんの出る幕はない。少女の憤懣に理解を示し、同情も共感もなく受け流すことだってできてしまうし、少年Aの行動の中に不器用さや鈍臭さを見て取り、笑い声を上げたり呆れ顔を浮かべたりもできる。まさしく大人の余裕ってやつだ。
少女と別れ、ツアーを終えた家庭持ちの僕は、吐瀉物を撒き散らすという臆病なテロルで世界への敵意にかたを付け、殴りも殺しもすることなく嫁さんとチビちゃんの待つ家へと帰っていく。大人には世界と戦う前にしなければいけないことがたくさんある。老いてしまった僕にはそれを悲しんでいる暇もなければ必然もない。他に考えることは山ほどあるし、世界と戦う仕事は今この時にもどこかで誰かに引き継がれているはずだからだ。戦う少年少女がどこにいるのか、本当に存在しているのかは知らないが、少なくとも、地下鉄の中でナイフを手にして座る少女の姿を空想するくらいの自由は許されるだろう。世界は常に危機と隣り合わせだ。夜空を見るたびに思い出すがいい。
とはいえ、客観的に見れば実際に少年Aのやったことはしょうもなかった。英語駄目駄目だったし。それでも彼は自分の主張を社会に叩きつけ、何も考えずに生きている肉のカタマリみたいな人間たちを震撼させることには成功したわけで、まあ、人を刺したり猫を殺したのはマズかったが、そういう現実的な話ではなく、あくまでスタンスというか精神性的な面からのみ捉えるならば、あれはあれで立派な業績を上げたと言えなくもない。
事件から十七年が過ぎ、少年Aも今では元少年Aどころか立派なアラサーだ。ユヤタン(笑)自身もとうに三十四才となり、マイホームでお父さんマシーンに従事するなど社会に順応しきっているらしい。作者と同い年であり、脂肪としがらみと面の皮を身に付けたこの作品の語り手も、現実を飼い馴らしながら日々を過ごしている。とは言っても、理解の及ばぬ事柄を既知の物語に押し込めわかったような口を利く大人たちの不誠実さに嫌悪を感じるくらいにはまだまだ青いままで、だから事件の舞台を訪れ少年Aの足どりを辿るツアーに参加するという行為は、僕らが嘲笑っていた醜い大人に自分自身がなったことで過去の自分から逆襲を受けるというのに等しい。さらに皮肉なことに、それについて恥じ入ることすらできないというのだ。だって大人だから。それはもう爆笑するしかない。大人になりきれないまま大人の役目を果たし続ける自分自身への違和感や困惑などというものを「大人らしさ」とは呼びにくいものではあるが、現実とはそういうものなのかも知れない、と大人の僕は考えたりもする。
一方、途中から太田さんっぽい人と入れ替わって登場した謎の美少女は、当時の少年Aと同じく十四才。彼女にとって少年Aというのは等身大のキャラクターというやつで、自己の鏡像であると同時に一個のロールモデルでもある。軽薄で窮屈で偽善的な社会に敵意を向けるのは、今も昔も少年少女の仕事だ。僕にとっては遠く過ぎ去った季節であり、世界との戦いに子持ちのおっさんの出る幕はない。少女の憤懣に理解を示し、同情も共感もなく受け流すことだってできてしまうし、少年Aの行動の中に不器用さや鈍臭さを見て取り、笑い声を上げたり呆れ顔を浮かべたりもできる。まさしく大人の余裕ってやつだ。
少女と別れ、ツアーを終えた家庭持ちの僕は、吐瀉物を撒き散らすという臆病なテロルで世界への敵意にかたを付け、殴りも殺しもすることなく嫁さんとチビちゃんの待つ家へと帰っていく。大人には世界と戦う前にしなければいけないことがたくさんある。老いてしまった僕にはそれを悲しんでいる暇もなければ必然もない。他に考えることは山ほどあるし、世界と戦う仕事は今この時にもどこかで誰かに引き継がれているはずだからだ。戦う少年少女がどこにいるのか、本当に存在しているのかは知らないが、少なくとも、地下鉄の中でナイフを手にして座る少女の姿を空想するくらいの自由は許されるだろう。世界は常に危機と隣り合わせだ。夜空を見るたびに思い出すがいい。
March 20, 2015
幸村と信繁
トレードマークでもあるボーダーのカットソーに身を包んだ吉野さんは、乾杯を済ませてからというもの、幹事でもないのにテーブルの間をせわしなく立ち回り、空いた皿やグラスに視線を巡らせてはテキパキと注文をこなしている。その様子は普段の仕事中とまるで変わらず、苦労して隣の席を確保したというのに、これでは話しかけるどころではない。
一段落ついた吉野さんが戻ってきたので、僕はさり気なく顔を背けた。じっと見つめていたことを悟られないためだ。椅子に座りこんだ吉野さんは、さすがに疲れが溜まっているようだ。どことなく気の抜けた表情を浮かべている。僕がグラスにビールを注ぐと、吉野さんはそっけなく「ありがと」と言った。
僕は吉野さんと仕事以外ではほとんど会話をしたことがない。吉野さんには人を寄せ付けないところがあるというか、同じことだけれど、取っ付きにくいところがある。仕事ができて、気も利くし、人望だってあるのだが、どことなくよそよそしさを感じさせるのだ。吉野さんについて知っていることはあまりない。出身も、生い立ちも、住んでいる町も、好きな食べ物も、嫌いな芸能人も僕は知らなかった。ただ、一つだけ、吉野さんが歴史……特に戦国時代を趣味にしているというのだけは僕も耳にしていた。というのも、そのことが部内では有名な噂だったからだ。休みごとに全国を飛び回り史跡を訪れているだとか、大名と国の名前をすべて暗記しているだとか、自宅は関連グッズで足の踏み場もないだとか、エトセトラエトセトラ。だから今日の僕は話題に迷うということはほとんどなかった。
「吉野さんって、歴史好きってほんとですか?」
「うん……なんで?」
とはいえ、いささか唐突だったかもしれない。いきなりこんな話を切り出されては、怪訝な顔をするのも当然といえば当然。会話ではホップとステップが大切だ。でも、このくらいなら予想もしていたし、口に出してしまった以上、今さら引き返せもしない。
「実は僕も武将とか好きで」
「え、誰?」
手にしていたグラスをテーブルに置き、吉野さんは僕の方に身を乗り出すように向き直った。警戒心はあっという間に解けたらしい。僕はほっとする。
「真田幸村とか」
真田幸村。猿飛佐助を始めとする真田十勇士を従え、奇抜な戦法を駆使して徳川方を翻弄、苦戦させながら、大坂夏の陣で壮絶な戦死を遂げた名将である。織田信長や徳川家康ほど有名ではないが、マニアしか知らないというほど無名ではない。話の導入には最適な選択だと、僕はそう考えていた。
「ノブシゲねえ……」
吉野さんはそう言ってせせら笑い、一人ふんふんと頷いた。 僕には意味がわからない。
「の、のぶしげ?」
それが武将の名前だろうというくらいの見当はつくが、真田幸村の話をしようとしているところに、どうしてそんな名前が出てくるのか。何か間違ったことを言ってしまったのだろうか。 「真田幸村の……」と言いかけたところで吉野さんは箸を取り上げ、「まだまだだねえ」と独りごちる。関心はすでに料理の方へと移ってしまったようだ。 何が起きたのかさっぱり理解できなかったが、思惑が外れてしまったということだけは確かだった。
「あ、今度、本貸してあげる」
付け焼き刃は見透かされているのかもしれない。下心もバレているのだろう。なんだか機嫌がよさそうなのは、きっと酔っているからに違いない。
「ほんとですか?」
でも僕はその申し出に即座に飛びついてしまう。満面の笑顔を浮かべた吉野さんが直視できず、僕は思わず目を逸らす。会話が途切れ、間抜けな返事しかできない自分が厭になる。
明日になっても、僕と吉野さんの関係は、これまで通り何一つ変わることなく続いていくのだろう。ただの職場の先輩と後輩だ。この会話だって、たまたま席が隣り合ったから生まれたってだけで、本は借りても読まないまま返すに違いない。戦国武将なんてどうでもいいのだ。
だけど、僕はせっかくの機会を棒に振りたくなかった。吉野さんに近づきたかった。踏み込みたかった。何かを言わなければいけない気がしたが、何を言うべきかはわからなかった。とにかくそんな気になっていた。気ばかりが焦っていたのだ。落ち着かない。目が泳ぐ。考えがまとまらないうちに口だけが勝手に動いた。
「歴史が好きな人、美人が多いってほんとですね」
言い終えた瞬間、周囲の喧騒が浮き上がる。僕ははやくも後悔した。吉野さんが今どんな顔をしているか確かめるには、僕には少し勇気が足りない。
「ちょっとやだ、やめてよー」
僕の内面を知ってか知らずか、吉野さんは急に笑いだした。それは、僕の言葉をすべてなかったことにするという宣告だった。
「わたし、でもあれだよ……中学時代とか、さ、西郷隆盛? 西郷隆盛に似てるって言われちゃっててさ……ていうか眉毛とかなんかドーンってしてるし、ていうか男じゃん?」
それは完全に僕への拒絶の意思を示していた。吉野さんはひたすら早口でまくし立てるばかりで、もう目を合わせようともしてくれない。ただ隣に座っているだけの僕は、彼女の繰り出す自嘲めいた言葉を、黙って聞き続けることしかできない。
一段落ついた吉野さんが戻ってきたので、僕はさり気なく顔を背けた。じっと見つめていたことを悟られないためだ。椅子に座りこんだ吉野さんは、さすがに疲れが溜まっているようだ。どことなく気の抜けた表情を浮かべている。僕がグラスにビールを注ぐと、吉野さんはそっけなく「ありがと」と言った。
僕は吉野さんと仕事以外ではほとんど会話をしたことがない。吉野さんには人を寄せ付けないところがあるというか、同じことだけれど、取っ付きにくいところがある。仕事ができて、気も利くし、人望だってあるのだが、どことなくよそよそしさを感じさせるのだ。吉野さんについて知っていることはあまりない。出身も、生い立ちも、住んでいる町も、好きな食べ物も、嫌いな芸能人も僕は知らなかった。ただ、一つだけ、吉野さんが歴史……特に戦国時代を趣味にしているというのだけは僕も耳にしていた。というのも、そのことが部内では有名な噂だったからだ。休みごとに全国を飛び回り史跡を訪れているだとか、大名と国の名前をすべて暗記しているだとか、自宅は関連グッズで足の踏み場もないだとか、エトセトラエトセトラ。だから今日の僕は話題に迷うということはほとんどなかった。
「吉野さんって、歴史好きってほんとですか?」
「うん……なんで?」
とはいえ、いささか唐突だったかもしれない。いきなりこんな話を切り出されては、怪訝な顔をするのも当然といえば当然。会話ではホップとステップが大切だ。でも、このくらいなら予想もしていたし、口に出してしまった以上、今さら引き返せもしない。
「実は僕も武将とか好きで」
「え、誰?」
手にしていたグラスをテーブルに置き、吉野さんは僕の方に身を乗り出すように向き直った。警戒心はあっという間に解けたらしい。僕はほっとする。
「真田幸村とか」
真田幸村。猿飛佐助を始めとする真田十勇士を従え、奇抜な戦法を駆使して徳川方を翻弄、苦戦させながら、大坂夏の陣で壮絶な戦死を遂げた名将である。織田信長や徳川家康ほど有名ではないが、マニアしか知らないというほど無名ではない。話の導入には最適な選択だと、僕はそう考えていた。
「ノブシゲねえ……」
吉野さんはそう言ってせせら笑い、一人ふんふんと頷いた。 僕には意味がわからない。
「の、のぶしげ?」
それが武将の名前だろうというくらいの見当はつくが、真田幸村の話をしようとしているところに、どうしてそんな名前が出てくるのか。何か間違ったことを言ってしまったのだろうか。 「真田幸村の……」と言いかけたところで吉野さんは箸を取り上げ、「まだまだだねえ」と独りごちる。関心はすでに料理の方へと移ってしまったようだ。 何が起きたのかさっぱり理解できなかったが、思惑が外れてしまったということだけは確かだった。
「あ、今度、本貸してあげる」
付け焼き刃は見透かされているのかもしれない。下心もバレているのだろう。なんだか機嫌がよさそうなのは、きっと酔っているからに違いない。
「ほんとですか?」
でも僕はその申し出に即座に飛びついてしまう。満面の笑顔を浮かべた吉野さんが直視できず、僕は思わず目を逸らす。会話が途切れ、間抜けな返事しかできない自分が厭になる。
明日になっても、僕と吉野さんの関係は、これまで通り何一つ変わることなく続いていくのだろう。ただの職場の先輩と後輩だ。この会話だって、たまたま席が隣り合ったから生まれたってだけで、本は借りても読まないまま返すに違いない。戦国武将なんてどうでもいいのだ。
だけど、僕はせっかくの機会を棒に振りたくなかった。吉野さんに近づきたかった。踏み込みたかった。何かを言わなければいけない気がしたが、何を言うべきかはわからなかった。とにかくそんな気になっていた。気ばかりが焦っていたのだ。落ち着かない。目が泳ぐ。考えがまとまらないうちに口だけが勝手に動いた。
「歴史が好きな人、美人が多いってほんとですね」
言い終えた瞬間、周囲の喧騒が浮き上がる。僕ははやくも後悔した。吉野さんが今どんな顔をしているか確かめるには、僕には少し勇気が足りない。
「ちょっとやだ、やめてよー」
僕の内面を知ってか知らずか、吉野さんは急に笑いだした。それは、僕の言葉をすべてなかったことにするという宣告だった。
「わたし、でもあれだよ……中学時代とか、さ、西郷隆盛? 西郷隆盛に似てるって言われちゃっててさ……ていうか眉毛とかなんかドーンってしてるし、ていうか男じゃん?」
それは完全に僕への拒絶の意思を示していた。吉野さんはひたすら早口でまくし立てるばかりで、もう目を合わせようともしてくれない。ただ隣に座っているだけの僕は、彼女の繰り出す自嘲めいた言葉を、黙って聞き続けることしかできない。
(了)
March 18, 2015
書評『1000年後に生き残るための青春小説講座』
(あらすじ)
2010年から翌11年にかけて、雑誌「群像」の「一世を風靡したが今は消えてしまった戦後文学作家の小説を読み直し、ディスカッションしてその価値を再発見する」というに戦後文学を読む」なる企画により、究極の小説を求めて主人公が東京中を右往左往する『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を獲った新進気鋭の若手作家佐藤友哉が、編集部から渡された作品を読みながら、三十路になったことや結婚したこと、サリンジャーの死や地震や原発問題、ネットとの付き合い方などについて、どうしようもない文章を書き飛ばし、1000年経っても読まれ続ける青春小説を書く方法を読者に伝授する話。
佐藤友哉によれば、戦後文学は今読んでも充分に面白い。けれど、今ではもう書店には並んでないし、ほとんど話題にもならないし、忘れ去られてしまっている。なぜ当時の文学青年は歴史に残るような小説を書けなかったのか。それは、ポップじゃなかったから。いくら美意識に満ちた名文を書こうと、時代を鋭く諷刺しようと、優れた思想が内在しようと、皆が本を手にしたがるような餌がない、最後まで飽きずに読ませようとするサービス精神がない、女子供が愉しめるような大衆性がない、誰もが理解出来るような一般性がない、そんな作品は伝達力に欠けている。世界は保守的なのである。読者に歩み寄らないと、現代の(そして未来の)少年少女たちは「お前の物語なんて読んでやるもんかよ!」とそっぽを向いてしまうか、十一ページも読んだところで挫折するのが関の山というもの。他人の視線や評価を意識し、需要のある物語を書き上げ、自分の価値を世界へと注ぐべきだろう。数字は正義。それこそがポップということ。叩かれたり傷ついたり無視されたりするのが嫌だからって文学の穴蔵から出ようとしないなんてのは負け組の云い訳に過ぎず、文学青年は時の流れを乗りこえることはできない。弱者は自覚して死なねばならないのだ。
『クリスマス・テロル』から十年あまり、技巧を身につけ、マイホームも買い、面の皮は厚くなった。だけど、佐藤友哉の言ってることはその頃と大して変わらない。同じところをぐるぐる回っているだけ。一般的な小説を書こうとして、書いたつもりがそうでもなくて、書けないとわかって、それでも書き続けながら生きている僕。とかそういうのもういいんで、ちゃちゃっと鏡家新作お願いしますよ佐藤先生。
2010年から翌11年にかけて、雑誌「群像」の「一世を風靡したが今は消えてしまった戦後文学作家の小説を読み直し、ディスカッションしてその価値を再発見する」というに戦後文学を読む」なる企画により、究極の小説を求めて主人公が東京中を右往左往する『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を獲った新進気鋭の若手作家佐藤友哉が、編集部から渡された作品を読みながら、三十路になったことや結婚したこと、サリンジャーの死や地震や原発問題、ネットとの付き合い方などについて、どうしようもない文章を書き飛ばし、1000年経っても読まれ続ける青春小説を書く方法を読者に伝授する話。
佐藤友哉によれば、戦後文学は今読んでも充分に面白い。けれど、今ではもう書店には並んでないし、ほとんど話題にもならないし、忘れ去られてしまっている。なぜ当時の文学青年は歴史に残るような小説を書けなかったのか。それは、ポップじゃなかったから。いくら美意識に満ちた名文を書こうと、時代を鋭く諷刺しようと、優れた思想が内在しようと、皆が本を手にしたがるような餌がない、最後まで飽きずに読ませようとするサービス精神がない、女子供が愉しめるような大衆性がない、誰もが理解出来るような一般性がない、そんな作品は伝達力に欠けている。世界は保守的なのである。読者に歩み寄らないと、現代の(そして未来の)少年少女たちは「お前の物語なんて読んでやるもんかよ!」とそっぽを向いてしまうか、十一ページも読んだところで挫折するのが関の山というもの。他人の視線や評価を意識し、需要のある物語を書き上げ、自分の価値を世界へと注ぐべきだろう。数字は正義。それこそがポップということ。叩かれたり傷ついたり無視されたりするのが嫌だからって文学の穴蔵から出ようとしないなんてのは負け組の云い訳に過ぎず、文学青年は時の流れを乗りこえることはできない。弱者は自覚して死なねばならないのだ。
『クリスマス・テロル』から十年あまり、技巧を身につけ、マイホームも買い、面の皮は厚くなった。だけど、佐藤友哉の言ってることはその頃と大して変わらない。同じところをぐるぐる回っているだけ。一般的な小説を書こうとして、書いたつもりがそうでもなくて、書けないとわかって、それでも書き続けながら生きている僕。とかそういうのもういいんで、ちゃちゃっと鏡家新作お願いしますよ佐藤先生。
February 17, 2015
序
いったい我々は「少女」という言葉で何を意味するつもりなのか、この問いに対して、我々は今日何らかの答えを持っているのであろうか。断じて否。だからこそ、少女への問いを改めて設定することが肝要なのだ。
たとえ現代が「セカイ系」を再び肯定することを進歩だと思っているにせよ、少女問題は今日では忘却されている。にもかかわらず人は、「少女〔ウーシア〕ヲメグル巨人ノ戦イ」を新しく焚き付ける努力はもうしなくてよいと看做している。そして、かつては思考の最高の努力のうちで、現象から戦い取られたものが、ずっと以前から陳腐なものになってしまっている。そればかりではない。少女を学的に解釈するために置かれたオタク的発端を地盤として、一つのドグマが作り上げられてしまった。このドグマは、存在の意味への問いを余計なものだと宣言するばかりではなく、その上、この問いを揺るがせにしてもよいと是認している。
少女を問い尋ねる必要はないと絶えず新たにその不必要を植え付け育て上げる諸先入見を、この探究の初めに論究することはできない。それらの諸先入見はその根を古代存在論のうちに持っているのである。この古代存在論を十分に学的に解釈することができるのは、少女への問いが予め明瞭にされ、そのことが手引きとなる場合に限られる。そのため、ここでは諸先入見についての討議を、少女の意味への問いを繰り返す必然性が洞察される程度に留めたいと思う。それらの諸先入見には以下の三つがある。
たとえ現代が「セカイ系」を再び肯定することを進歩だと思っているにせよ、少女問題は今日では忘却されている。にもかかわらず人は、「少女〔ウーシア〕ヲメグル巨人ノ戦イ」を新しく焚き付ける努力はもうしなくてよいと看做している。そして、かつては思考の最高の努力のうちで、現象から戦い取られたものが、ずっと以前から陳腐なものになってしまっている。そればかりではない。少女を学的に解釈するために置かれたオタク的発端を地盤として、一つのドグマが作り上げられてしまった。このドグマは、存在の意味への問いを余計なものだと宣言するばかりではなく、その上、この問いを揺るがせにしてもよいと是認している。
少女を問い尋ねる必要はないと絶えず新たにその不必要を植え付け育て上げる諸先入見を、この探究の初めに論究することはできない。それらの諸先入見はその根を古代存在論のうちに持っているのである。この古代存在論を十分に学的に解釈することができるのは、少女への問いが予め明瞭にされ、そのことが手引きとなる場合に限られる。そのため、ここでは諸先入見についての討議を、少女の意味への問いを繰り返す必然性が洞察される程度に留めたいと思う。それらの諸先入見には以下の三つがある。
- 「少女」は「最も普遍的な概念」である。(この言い方は、この最も普遍的な概念が最も明瞭な概念であって、それ以上の論究をまったく必要としないということを意味することはできない。「少女」という概念はむしろ最も曖昧な概念なのである。)
- 「少女」という概念は定義不可能である。(決してそうではない。結論することができるのは、「少女」は存在者といったようなものではないということだけである。)
- 「少女」は自明の概念である。(こうした平均的な了解しやすさは了解しにくさを論証するだけである。)
February 16, 2015
永遠を目掛けるポスト心中主義としてのセカイ系
大人に囲われた少女と無力な少年の恋物語として、セカイ系は明らかに近松以来の心中ものの系譜に属する。少年が子供であるがために彼女とともに戦うことを禁じられているということが何を意味しているかについて、ことさら説明する必要もないと思う。
心中ものにおいて恋人たちに死を決意させるのは、現世への絶望と同程度以上に来世への希望である。永遠の愛を実現する手段として心中は人気を集め、実際昭和あたりまでは機能している。三原山とか。しかし、近代化が進むに従い心中はおとぎ話へと追いやられ、80年代にはほぼ廃れた。近代主義的死生観から刹那的享楽という一つの方向が台頭し、永遠の愛といった主題はいったん閑却される。この刹那主義はやがて退潮するものの、心中が再びその地位を回復することはなかった。その後、再び永遠の愛が主題化され始めるようになった際に、心中ものの様式を継承しつつ心中の不可能性という地点に立脚して永遠の愛を目指そうと誕生したのがセカイ系である。
セカイ系では、少女が世界(と少年)を守るため自ら命を投げ出し、少年は彼女の思い出を抱えながら生き続ける。残された者が亡き恋人の思い出を支えに生きるという構図はセカチューや恋空などの病死ものにも見られる。病死ものでは死は不運な事故に過ぎないが、セカイ系では、その死は主体的に選び取られたものである。
少女は、少年とともに世界が滅び去るのを見届けることを拒否する。なぜなら、それは消極的な心中に過ぎないからであり、永遠を手に入れるためには心中はすでに無効となっている方法であるためだ。ここに選択がある。少女の守ろうとする世界は、たとえそれが失敗に終わったとしても、彼女の愛の刻み込まれたものとなる。少年は残りの人生をこの世界の中で生き続けることになるが、彼の死後においても二人の愛の記念碑として文明や人類を超え世界は存続するだろう。ゆえに少女は戦いを引き受ける。世界とともに戦い続けることを決意する。彼女にとってこの世界こそすなわち愛だからだ。永遠を目掛けるポスト心中主義としてのセカイ系である。
心中ものにおいて恋人たちに死を決意させるのは、現世への絶望と同程度以上に来世への希望である。永遠の愛を実現する手段として心中は人気を集め、実際昭和あたりまでは機能している。三原山とか。しかし、近代化が進むに従い心中はおとぎ話へと追いやられ、80年代にはほぼ廃れた。近代主義的死生観から刹那的享楽という一つの方向が台頭し、永遠の愛といった主題はいったん閑却される。この刹那主義はやがて退潮するものの、心中が再びその地位を回復することはなかった。その後、再び永遠の愛が主題化され始めるようになった際に、心中ものの様式を継承しつつ心中の不可能性という地点に立脚して永遠の愛を目指そうと誕生したのがセカイ系である。
セカイ系では、少女が世界(と少年)を守るため自ら命を投げ出し、少年は彼女の思い出を抱えながら生き続ける。残された者が亡き恋人の思い出を支えに生きるという構図はセカチューや恋空などの病死ものにも見られる。病死ものでは死は不運な事故に過ぎないが、セカイ系では、その死は主体的に選び取られたものである。
少女は、少年とともに世界が滅び去るのを見届けることを拒否する。なぜなら、それは消極的な心中に過ぎないからであり、永遠を手に入れるためには心中はすでに無効となっている方法であるためだ。ここに選択がある。少女の守ろうとする世界は、たとえそれが失敗に終わったとしても、彼女の愛の刻み込まれたものとなる。少年は残りの人生をこの世界の中で生き続けることになるが、彼の死後においても二人の愛の記念碑として文明や人類を超え世界は存続するだろう。ゆえに少女は戦いを引き受ける。世界とともに戦い続けることを決意する。彼女にとってこの世界こそすなわち愛だからだ。永遠を目掛けるポスト心中主義としてのセカイ系である。
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